小説の中の将棋を使った表現

10年ぶりに開けたダンボールには、阿刀田高さんの「花の図鑑(上)(下)」も入っていた。

私は大学時代からの阿刀田高ファンであり、奇妙な味の短編小説が中心だった中期までの著作は全て読んだと思う。

「花の図鑑」はその中期の頃の長編作品で、ジャンル的には恋愛小説になる。1986年に日本経済新聞で連載されていた。

あらためて読み直してみたが、恋愛の過程を将棋で例えている部分があった。

今日は、その紹介をしてみたい。

まずは本のあらすじから。

鉄鋼関係の会社に勤める中座啓一郎には二人の恋人がいた。

ひとりは画商の千倉法子。啓一郎とは学生時代から関係が続いている。

もうひとりはスナック・バーのママの田川薫。恋愛感情というよりも、彼女の肉体にひかれていた。

そんな時、啓一郎は婦人雑誌の記者だという寺田麻美と知り合い、彼女にも魅了されていくが…。

女たちの間で彷徨う男の恋愛模様を軽やかに描く。

中座啓一郎は35歳独身のサラリーマン。

タイからの出張の帰り、飛行機のエンジントラブルで香港へ一晩足止めされることになる。

その時にたまたま空港で知り合ったのが、同じ飛行機に乗っていた婦人雑誌記者の寺田麻美。

麻美は非常に美しい女性だった。

航空会社が用意したホテルに乗客は泊まることになるが、啓一郎は麻美を誘って香港の夜の街へ出かけた。

そしてビクトリア・ピークで二人は口づけを交わす。

その日はそれだけで終わり、翌日二人は帰国。

啓一郎は麻美にどんどん惹かれていく。

麻美の仕事の都合などもあり、啓一郎が麻美と次に会えたのはそれから40日後のことになる。

食事をしたりホテルのバーで酒を飲んだりの初デートは、まあまあいい感じだったが、麻美はやさしいがやや他人行儀な口調。話も途切れがちになる。

気ばかりが焦る啓一郎。

麻美を自宅まで送るタクシーの中で、啓一郎は麻美の手を握る。

つぶやきながら麻美の手を取ったが、手袋をつけている。寒い季節がうらめしい。握ったからといって格別楽しいことがあるわけではないけれど、せめてこのくらいの成果がなければ今夜は情けない。

将棋だって歩が、と金になる。桂馬と銀とを交換する、飛車が裏に成る。一歩一歩攻めて行く。いきなり王手を狙うわけにはいかない。手袋は素手よりずっと低いレベルだろう。

(中略)

赤坂から広尾は近い。すぐに麻美のマンションに着いた。

「そこで結構です」

車が止まる。ドアが開く。啓一郎も降りようとしたが、

「どうぞ。そのまま……。ありがとうございました。とても楽しかったわ。またお電話をくださいませ」

丁寧に告げて頭を垂れる。

(中略)

―うまくかわされたなあ―

そんな気がして仕方がない。

今夜抱き合うことを期待して麻美に会ったわけではなかった。これは本当だ。一気にそこまで行くには早すぎる。だが、もう少し……そう、香港の夜に繋がる気配くらい、あってもよかっただろう。戦陣は大幅に後退してしまった。せっかく飛車を取ったのに、またもとに戻されて……

—–

特に後半の表現が秀逸だと思う。

キスまでいければ飛車得というモノサシになるということだ。

この後、啓一郎の努力により麻美とは結構いい線まで行くが、最終的には「三兎追うものは一兎をも得ず」というむなしい結末になる。

花の図鑑〈上〉 (角川文庫) 花の図鑑〈上〉 (角川文庫)
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