森下卓八段(当時)の水垢離

将棋世界2002年3月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 控え室に戻り、昨日の羽生対森下戦を並べてみると、森下八段が絶妙の指し回しで勝っていた。森下将棋はたとえて言えば楷書で、隅々まできちんとしている。それがこの将棋は草書体である。新境地を開いたか、と感心していると、誰だったかが「森下さんは、毎朝水垢離を取っていて、それが原因で風邪を引き、対局中は苦しそうでした」なんて教えてくれた。そうか、体を清め、将棋の神様に、いい将棋を指せますように、と祈って勉強しているのか。また感心したら、違う誰かが「いや単なる朝シャンでしょ」と言った。真相はともあれ、噂話は尾ひれがつくからおもしろい。

(中略)

 さて後日談―。

 1月18日にB級1、2組の順位戦があった。本欄の締め切り日であるから、取材の予定はなく、私は家で8日の記事を書いていた。ところがはかどらない。あの先崎対三浦戦がやたらややこしくて、変化がわからなくなる。いちいち手を読んでいては時間ばかり食う。

 意を決して、将棋会館に出かけることにした。誰かに教えてもらった方が早い。それにC級1組の結果も気がかりだ。

 そんなわけで将棋会館に来て、まず順位戦の星を見ると、残っていた二局の、屋敷対堀口(一)戦は屋敷。石川対小倉戦は石川がそれぞれ勝っていた。

(中略)

 そして控え室に森下八段が来ていたので例の水垢離の真相も確かめた。

「いや、そんな大それたものじゃありません。冬に風邪を引かぬようにと、7月ごろから冷水浴を始めたんです。ところが、12月に入ってすぐ風邪を引いてしまい、これが治らなくて、参りましたよ」

 それがこの日はすこぶる元気そうである。「天敵(羽生)に勝ったら、とたんに治ったんだ」と私は言ったが、森下君は笑うだけである。

 するとこのとき後ろでそっと囁いた者がいる。

「老師、昨日の結果をご存知ですか。森下さんは自力で名人挑戦者になれるんですよ。だから風邪も治り、こうして勉強に見えてるんですよ」

 昨日17日のA級順位戦で谷川九段が森内八段を破った。森下八段は、森内、佐藤(康)との対戦を残しているから、たしかに自力である。

 ここでまた、毎月のように同じ事を書かざるを得ない。将棋会館に顔をだすのは、勝った者、景気のよい者だけだと。

 そういえば、森下八段の横で継ぎ盤を作っていたのは、痛快に勝った日浦七段だった。

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水垢離は、 神仏に祈願する前に,水を浴びて身を清め,けがれをとり除いて心身を清浄にすること。

昔ながらのやり方は、桶で水をかぶるということになるのだろう。

冷水浴は、一言で言えば水風呂や冷水シャワー。

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真冬のことを考えた場合、苦行度で考えると、

水風呂>冷水シャワー>桶で水をかぶる

なのではないかと思う。

やはり、「桶で水をかぶる」よりも「シャワーで水を浴び続ける」ほうが辛そうだし、「水に浸かり続ける」はもっと厳しそうだ。

森下卓八段(当時)は「いや、そんな大それたものじゃありません」と語っているが、 神仏への祈願を除けば、どう考えても、冷水浴は水垢離を上回る苦行なのではないかと私には思えるのである。