佐藤大五郎九段の訃報が、昨日、日本将棋連盟より発表された。享年73歳。→<訃報>佐藤大五郎九段が死去
「薪割り大五郎」と呼ばれた佐藤大五郎九段の豪快さやエピソードについては、昨年このブログでも取り上げた。
”将棋指し”という言葉が似合う数少ない棋士だった。
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将棋世界1999年7月号、鈴木輝彦八段「棋士それぞれの地平」のゲストは 佐藤大五郎九段。
鈴木輝彦八段の前書きの文章が印象的だ。
佐藤大五郎先生と話をするようになったのは、先生が50歳を過ぎてからだと思う。勝負に燃える30代の頃や生活がハデになった40代は記録係を通じて少し知るだけである。それでも、七段からA級に上がる時の迫力は少年の目にも怖い感じだった。40代の時は、身に付ける物が数千万になるという話などを笑いながら言っていた。まだ棋士が貧しい時代で、多少浮いている様にも見えていた。
今回、少年の頃からの話を聞いて、そんな人生の変遷も分かる感じだった。誤解を承知で書けば、森けい二さんとは違った意味での本物の将棋指しなのだと思う。
そこには、将棋に全てを懸けた男の生きざまが見てとれるのだ。
棋士の本音ともいえる直言居士や成金趣味は他の棋士には反発を招く時もあったに違いない。しかし、そうしたパフォーマンスも才能の限界に挑戦する棋士人生と無縁ではなく、幼児性と一言でかたづけるのは間違いではないか。
先生が50代になってからは、対局の後等何度か飲みに誘って頂いた。
(中略)
昔話を聞かせてもらった。もう、すっかり枯れた感じで、棋士の幸せとかをしんみり語っていた。話に出た、豪遊には連れていって頂けなかったけれど、それはそれでいい出会いだと思ったりした。
その後、私が七段に上がった時は、両手で握手して「良かったね」と言ってくれたのは、ご自身の順位戦での苦労を重ね合わせたのかもしれない。
対局姿もすっかり楽しんでいるようであった。若手の名前はいつも間違えていた。
対局席につくなり、「森山君だったね」と言うのは森下君である。駒箱を開けようとするので森下君が「先生、今日の相手は私ではありません」と困ったように言う。とりあえず空いている席に座るのだった。「なんだ違うのか」と言うので対局室は爆笑である。名前は違っているし、席も間違える。この先生、ボケているのかな、と思わせて終盤は強烈な勝負手を放ってくる。この戦法も二、三度で効果をなくしたが、先生は気に入って何度もやっていた。若手と指すのも、将棋自体も本当に楽しくなっていたのだろう。これほど分かり易いのは、人間が真実正直な証明だと思う。
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今日のもう一つの記事で、佐藤大五郎九段自慢の一局を紹介したい。