広島の親分(3章-5)

昔話
 湯川さんは普段はものすごく喋るタイプなのだが、取材のインタビューのときは相手からうまく話を引き出せるよう、あまり自分では喋らずに、相手の話に合わせてタイミング良く合いの手を入れている。
大田学さんや、同門の西本馨七段が広島へ遊びに来たときの話も出た。
 取材も大方終わり、あとは飲みながらの雑談。
「広島が戦争(抗争)の頃、わしを訪ねていろいろな人が来よった。わしはその人と握手をすると『この人はいつ頃死ぬ』というのがわかるんじゃ。本当によう当った」
この話を聞いて、私も握手してもらおうと一瞬思ったのだが、少し考えてやめた。
「ダッコちゃんが広島で品薄なころな、ピストルを何丁か東京へ持ってって、それでダッコちゃんを大量に仕入れたんよ」
これは昭和30年代後半の、高木さんが村上組組長時代の話。
ピストルで相手を脅したのではなく、東京ではなかなか手に入らないピストルを代金代わりに、その筋から商品を仕入れたということだ。
「昔の戦争(抗争)の頃な、駅前に警官が沢山並んどるところを、かあさん(奥様)と一緒にピストルが沢山入った風呂敷包みを両手に抱えて、こういうふうに歩いたんよ。ピストルは重いんで気付かれないようするのが大変じゃった。」
これは昭和27年の話。高木さんは立ち上がって、両手にピストルが入った風呂敷包みを持って、ゆらゆらする格好を再現した。
「テキヤにとっては広島が平和なほうがええんじゃ。市民にも迷惑がかかるし、抗争の最中は商売にならん」
「わしが知っていた他の組の人たちは、ほとんどが懲役と抗争で亡くなっていった。懲役にも抗争にもかかわらず健康でいるのが一番じゃ」
生ビールは3杯ほど空いた。
「わしは、大道詰将棋からこの道に入ったんじゃが、その大道詰将棋はインチキだった。こんなに将棋を冒涜することはないと思い、わしのところでは大道詰将棋を禁じた。今でも(中国高木会の人達に対して)公営ギャンブルを含む博打は禁止しとる」
「将棋には嘘がない。わしがこうしていられるんも将棋のおかげじゃ。将棋には本当に感謝しとる」
 取材は、大成功だった。