「封じ手事件」の真相

当時、「封じ手事件」と言われた出来事。

NHK将棋講座1996年6月号、畠山直毅さんの名人戦第1局「羽生、爽やかに対決を制す」より。

羽生善治名人と森内俊之九段の初めての名人戦第1局。

前代未聞の珍事件は、1日目の午後5時29分過ぎに起きた。記録係が指しかけの図面を書き込み、立会人が封じ手を促した直後……。

「え、指すつもりだったんですけど」

こう言って、挑戦者の森内はさらりと△9四歩を着手したのだ。今までの常識からいえば、この局面では「森内の封じ手」が盤上この一手。

ファンも関係者も、そして羽生七冠王も、気持ちは翌朝の攻防へとタイムスリップしていたはずだ。

「森内が羽生に喧嘩をふっかけたぞ」

誰もがこう考えた。これは、羽生を困惑させる陽動作戦なのだ、と。

「あの一手は、明日から個人的には口をきかないよ、という意思表示。少年時代からの友人関係と決別し、お前とは死ぬまで闘うぞという宣戦布告ですね」

米長邦雄九段は翌日の大盤解説でこう「通訳」し、名人戦の緊張感は一気に最高潮に達した。

だが、その真相は……。

「いや、あれは単に封じ手をやりたくなかったから……で、コッチが早い時間に指しちゃうと、また羽生さんが指すかもしれない。それは困るから、私の時計で30秒前まで待って指したんです」

第1局が終わった翌日、その反響の大きさに少し恐縮しながら、森内は淡々と心境を吐露した。

森内にとっては初めての2日制の対局。つまりは初めて直面する封じ手の局面で、規定時間ギリギリにその封じ手を拒絶したのだ。その理由を尋ねると、実に森内らしい素朴な答えが返ってきた。

「封じ手をやって、休みに入るっていうのがどうも…。なんか、ひと晩、僕だけの秘密を抱え込むようで、気持ちが悪いじゃないですか。封じ手を促されたときは一瞬迷いましたけど、自分の気持ちにシコリを残したくなかったので、当初の予定どおりに指したんです。でも、あれで逆に羽生さんにシコリを残したとしたら、申し訳なかったですね」

こう言って苦笑する森内。喧嘩をふっかけるどころか、逆に羽生への無礼を詫びてしまったのである。

じゃあ、あの一手を境に今後、羽生さんとはプライベートで口をきかないなんてことはないんですか。

この質問に、森内は驚いたように大きく目を見開いた。

「え?どうしてそうなるんですか?あれは対局の上での出来事であって、一切プライベートとは関係ないじゃないですか」

なんて不思議な質問を投げかけるんだろう、という風情で切り返す。

僕は森内の純朴な視線に戸惑いながら、少し寂しいような、それでいて少しほっとしたような妙な感覚に襲われた。

おそらく、羽生も森内と同じ気持ちなのだろう。25歳の同年対決は、やはり盤上で数学の真理を追究するような「将棋を極める」対決でしかない。その爽やかさが今回の名人戦の魅力であり、また、爽やかすぎる点がいささか物足りないようにも感じられるのだ。

だが、「盤上の出来事」に限定して言うなら、この森内の△9四歩には少なからぬ打算があった。

「もちろん、あの後で羽生さんが長考してくれれば、それだけ持ち時間が減るからありがたいですよね。わずかながら羽生さんが攻めてくる可能性もあるところなんです。攻めてくるとしたら▲1五歩の一手。ええ、13分で封じ手にしたので▲1五歩だとわかりました。夜も▲1五歩だけを想定してその後の展開を考えてました」

実にあっけらかんと打算を打ち明ける森内。そして、森内の思惑どおりに短時間で▲1五歩を封じた羽生。もし相手が羽生でなく升田幸三だったら、「無礼者!」とばかりに短時間で攻めの勝負手を封じたかもしれない。あるいは、怒りを鎮めるために長時間考えてから▲1五歩を封じたかもしれない。もちろん、その後は公私ともに口をきくこともなかったに違いない。

「あ、そういえば羽生さん、ムッとしてましたね。ちょっとだけムッとしてるのが、わかりました」

森内はこう付け加えて、心底楽しそうに笑った。この「事件」が、今後の二人の関係に何のシコリも残さないことを確信している笑顔。時代は変わったのだ。

(中略)

わずかな形勢の差が、やがて大差に広がるときがやってきた。森内の飛車がイジメにイジメられて、ついにソッポに排斥された。

「え、そこまで粘るの?これは、なんの楽しみもないよねえ。粘るだけの一手。ここまでやるかぁ…」

△4三飛を見た瞬間、中原誠永世十段がこう言って絶句した。いわゆる「クソ粘り」の一手で、素人目にも投了やむなしの形勢である。

「いや、もうあの局面は全然ダメです。ただ飛車を逃げただけ、でした」

森内自身も、赤面しながら振り返った一手。だが、この手を境に必勝のはずの羽生の指し手が乱れはじめ、ついには森内勝勢にまで流れが変わるのだ。中原がしみじみとつぶやく。

「あれがいい勝負になっちゃうのか。強いねぇ、むちゃしないで、じわぁっとしてんだねぇ。じわぁっとしていれば、勝負になるのか……」

これは最高級の賛辞と言えるだろう。棋士のマラソン大会で優勝したこともある「持久力の森内」の真骨頂。

(中略)

そして、今度は羽生が▲9八角という見苦しいほどに執念深い粘りの手を指して、再逆転となった。

(中略)

羽生先勝。

感想戦は、前日の「封じ手事件」の余波など微塵も感じさせないほど、明るく爽やかだった。

森内「あんな▲9八角で負けるとは思わないっすよぉ」

羽生「コッチもいいと思って指してないっすよぉ」

場内に笑いの渦が広がる。極めつけは、二人が立ち上がって出口へ向ったときだ。森内が羽生の横に歩み寄って、ぼそぼそとつぶやいた。

「最後は4二から簡単な詰みがあったんじゃない」

「あ、あ~あ、あ、そっか!」

羽生のすっとんきょうに高い声が、廊下にこだました。爽やかで、そして爽やかすぎる光景に、僕はしばし呆然となった。

(以下略)

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まわりが心配するほど、当人同士はどうということはないことが多い。

反面、その逆のケースも世の中には多い。

今までの、相手と自分の関係次第ということになるのだろう。

名人戦第1局、封じ手の場面。将棋世界1996年6月号より、撮影は中野英伴さん。