東海の鬼といわれて(前編)

「東海の鬼-花村元司九段棋魂永遠記-」より、将棋ジャーナル1983年1月号、湯川博士さんの「東海の鬼といわれて」より。

背広とコーヒー

 花村九段が初めて将棋ジャーナル誌に登場したのは、56年の7月号『勝負師対談』である。お相手は作家の阿佐田哲也さん。

 実はこの企画、私の長年の個人的願望を、ジャーナル編集長という立場を利用して実現したものである。むろん花村先生とも阿佐田先生とも面識はない。単なる一ファンである。この企画が頭に浮かんだのは、丁度私が麻雀から将棋にのりかえたころであるから、もう10年以上も前になる。そのころ、麻雀放浪記の「坊や哲」を知り、「東海の鬼」の存在を知って、

(これ以上の組み合わせはないだろう)と思ったものである。

 一人はバクチ打ちが作家になり、一人はバクチ打ちがプロ棋士になった。そしてどちらも一流の人となった。作家がバクチを打ち、プロ棋士がバクチを打つのはいくらでもいるが、その逆はこの二人にとどめをさす。

 企画実現までは、ずい分と両者の間を行ったり来たりしたが、苦労どころか楽しくてうれしくて息をはずませて歩いたものである。

 花村九段に実際会った時の印象で特に深かったことは、背広とコーヒーである。

 英国製の実にいい色あいの生地で、仕立てがカッチリしている上下だった。そしてコーヒーであるが、砂糖を少し入れて音のしないようにクルリとスプーンを回し、小指をピンと立て眼を細めてスッと飲む形が決まっていた。コジャック刑事のテリー・サバラスか、七人の刑事の大滝秀治もたじたじの雰囲気がある。なにしろ花村さんの場合は、演技でなく、何十年も鍛え込んだ所作であるから、〔奥〕を感じさせる。

 コーヒーの飲み方を見ていて、酒を飲まない人だなあ、と思った。呑んべえじゃああんなにコーヒーをうまそうにきれいに、飲めるもんじゃあない。

 花村九段がプロ付け出し五段で入って、その後A級在籍16年、タイトル挑戦4回という実績を残し、今なお66歳にして第一線で頑張っているのは、酒を飲まないことが大きい。勝負師が酒を飲めば、どうしたって深酒になるし、不摂生になりやすい。勝って飲み負けて飲み、稽古先で飲み招待で飲むという具合。

 私は男性を見分ける時、「呑む、打つ、買う」で判断する。この方法は実に単純でわかり易く、間違いが少ない。

 これでいくと、花村九段は、打つ人で買う人だ。打つ方はわかる。打つといっても、「昭和23年以来バクチからは足を洗って、今は道楽程度の競輪だけ」とのこと。

 買う方は、大いなる憶測である。

 なにしろ、若いころは滅茶苦茶もてたという。そりゃそうだ。金があって身ぎれいで、気前がよけりゃ、モテない方がおかしい。これは本人がいっているんだから、間違いない。若い時そんなにご婦人にもてた方が、年配になったからって、無しになる訳がない。

 第一、あの色艶のよさは現役のものである。

 私の知っている話--。大阪のキタ新地という花街の真中に、小さな将棋クラブがあって、その二階には、時々将棋指しが泊まったりする。私も一度ごやっかいになったことがある。そこへ花村先生もちょいちょい行くらしいが、ここでの日課は朝早く起きてお風呂屋さんに行って10円カミソリを二つ買い、きれいに自分で頭を剃り上げる。朝風呂の後は手ぬぐい片手にちょいとひやかして歩く。オツな朝食を食べてから、スポーツ新聞を広げて競輪情報に目を通す。目標が決まるや軽い足どりで駅に向かう。夕方は早目に帰ってきて将棋を指したり、街を散歩したりというところである。

 花村さんにとっては、競輪が明日への活力の素であり、街の散歩が若さを保つ秘訣になるのだろう。こういう、ささやかな楽しい自分の時間を持つことが、働く悦びにつながり、生活の健康なリズムになるのだ。

「さあ、今日はどうやって過ごしてやろうか」

湯気で十分やわらかになった頭髪を剃りながら、鏡に向かってニンマリしている花村先生を想像すると、これこそが、(人が生きるということ)なんだろうなあと、思うのである。

(つづく)

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故・花村元司九段は大正6年、静岡県浜松市で生まれた。

小学校時代は算数が抜群の成績、図工と体操がゼロに近かった。

校長などから師範学校に行くことを勧められたが、体操が苦手なので教師になることは拒んだ。

その後、鋳物工場で働くことになり、将棋はこの頃覚える。

しかし、工場で足に大火傷を負い、そのことがきっかけとなり、退院後に将棋と囲碁の真剣師の道を進むことになる。

(つづく)