将棋世界2002年7月号、藤井猛九段の「四段昇段の一局 システムの原点」より。
〔三浦弘行と穴熊〕
奨励会でも勢いは続いた。一年半のスピードで1級へ。
私はずっと四間飛車ばかり指してきたと思われがちだが、そうではない。研修会時代からこの頃までは、第1図のような中飛車一本だった。
ところが1級ではまったく勝てなくなった。このレベルには、中飛車は通用しないのか?悩んだ。
その頃、弟弟子の三浦弘行が奨励会に入会し、師匠譲りの振り飛車穴熊で勝ちまくり、瞬く間に追いついて来た。
同じ群馬からの通い組同士でもあり、三浦君の家に泊りに行って、徹夜で百番勝負を繰り広げたりもした。夜食に取ってくれた、山賊ラーメン、海賊ラーメン、各三千円也はものすごい量で、とても食べきれなかった。懐かしい。
三浦君の振り飛車穴熊は、私にはいいかげんな将棋に思えて、なんであれで勝てるのか不思議だった。私もなかなか勝てなかった。
彼の勝負に徹した指し方に、初めは疑問を持ったが、彼と何番も指すうちに、奨励会を生き残るには、このやり方しかないと悟った。
そして私は振り穴党に変身し、それが原動力となって、1年ぶりに初段に昇段した。
当時、プロ棋界では居飛車穴熊全盛。奨励会でも流行していた。
居飛穴をやられて困るのは、昇段の一局など自分に勢いがある時でも、居飛穴の固さに、勢いが負けてしまうことがあるからだ。
穴熊には穴熊。私は振り穴党に変身したのは、そんな理由もある。
私が得意にしていたのは上図の形だが、この局面は、はっきり言って、後手不利である。しかし、私はこの戦法で勝ち進む。もちろん、それは血の滲むような研究と経験値、勝負への執念に裏打ちされてのことだ。
初段昇段後間もなく高校を卒業した私は、上京して、将棋漬けの生活に入る。
研究会に参加するのも、記録係も務めるのも、初めてだった。
環境の変化もプラスに働き、半年で一気に三段に駆け上がる。
私がバンドエイドだらけの指で将棋を指しているのを見て、「藤井は、指から血が出るまで研究している」と、噂が立ったのはこの頃だ。食器用洗剤でひどく手が荒れて血を流していたのが真相だが(笑)。
三段になったものの、リーグ参加までは半年待たされることになった。この半年を利用して、初めて居飛車の勉強をしようと思い立つ。矢倉、角換わり、横歩取り、すべて定跡本から買い漁り、一から勉強。新鮮だった。
私の振り飛車は、よく居飛車感覚だと言われるが、この居飛車の勉強で身についたものは大きい。
(つづく)
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山賊ラーメン、海賊ラーメン、各3000円。
ネットでいろいろ調べてみたが、今はこれらのラーメンは作られていないようだ。
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現代、山賊ラーメン、海賊ラーメンと名のつくものはどのようなものか。
三浦八段の地元の高崎に、「山賊麺」というメニューがあった。950円
巨大チャーシュー、味玉、メンマ、もやし、キャベツ、ニンニクの芽、コーンがトッピングされ、スープは濃厚鶏スープ。950円。
結構なボリューム感だ。
当時の山賊ラーメンとは、店も内容も異なるのかもしれないが、相当すごいラーメンだったのだろう。
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三浦弘行八段のお母様は、ざっくばらんでとても楽しい雰囲気を持っている。
その優しいお母さんが、二人の夜食ということで出前で取ってくれた巨大ラーメン。
忘れられない味になることは確かだろう。
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「藤井は、指から血が出るまで研究している」と周りが誤解してくれたのも、藤井三段(当時)の日頃の精進の賜物だったのだと思う。