苦悶の中の佐藤康光四段(当時)

将棋マガジン1988年8月号、河口俊彦六段(当時)の対局日誌より。

王位リーグ最終戦 伊藤果六段-佐藤康光四段戦。

 佐藤は横坐りになり、両手をたたみについて考えている。盤に近づけた眼はベソをかきそうだった。だれの目にも、追いつめられ、形勢を悲観しきった姿と見てとれた。

 羽生ならこんな姿は見せない。知らん顔して指しているだろう。

(中略)

 △7七桂成からの追撃には、追われる者の悲哀があらわれている。王手王手と迫っているが、追われているのは佐藤の方である。熱いトタン屋根の上の猫みたいなものだ。

(中略)

 先崎少年などは目を輝かせて考えるが、どうもいい手がない。△4五桂までは、他に指しようがないという手段だが、これっきりである。先崎も室岡も、「ダメだっ」とさじを投げた。

(中略)

photo (6)

 ところが伊藤には一つの手順が見えていた。それは図で△3七飛と打つ手である。△3七飛は△7八竜を見て一手すき。▲3三歩成は△同飛成と取り、依然先手玉は一手すきで、後手玉は一手すきがかかりにくい。まさしく逆転のテクニックで、これに気づけば、だれでもそう指す。伊藤もそれを怖れて、▲2八玉と逃げる手に貴重な12分を使ってしまった。

(中略)

 もし。△3七飛が見えていたら、佐藤もそう指しただろう。そして指していれば負けていた。

 △3七飛は、▲3三歩成△同飛成▲3四歩△同竜▲3五銀、以下難解な変化だが、先手が勝ち。

 佐藤は知らないものだから△5八飛といちばん簡単に負ける手を指してしまった。だから勝てたのである。「知らぬが仏」とはこのことだ。

(以下、△5八飛▲4八金△同飛成▲同角△3七金▲1七玉△7七竜)

 △3七金で多少なりとも上部を厚くしておいて、△7七竜と必至をかけた。詰まされれば負け、という手である。といっても伊藤の駒台には山ほど駒があり、詰むに決まっている。

(中略)

 攻めるのは、詰将棋の名手の伊藤である。まさか詰まし損なうとはだれも思わなかった。

(以下略)

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”熱いトタン屋根の上の猫”など、本当に辛そうな表現が続くこの将棋は、佐藤康光四段(当時)の必敗形だったが、伊藤果六段(当時)が詰みを逃してしまったため、佐藤四段の逆転勝利となった。

河口俊彦六段(当時)は、超一流になる棋士に必要な勝負運の強さが佐藤康光四段にはあるのではないか、と結んでいる。

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この結果、王位戦リーグ紅組は森けいニ九段と佐藤康光四段が同率首位となり、プレーオフが行われる。

ツキに恵まれた佐藤康光四段が勝つのではと見る向きもあったが、森けいニ九段は佐藤康光四段に勝ち、挑戦者決定戦で森下卓五段にも勝って、挑戦者となる。

更に森けいニ九段は、七番勝負で谷川浩司王位に4勝3敗で勝って王位を獲得する。

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佐藤四段を倒して、その運を念力で自分の方へ引き寄せた形の森九段、七番勝負では見事な指し回しを見せる。