中原人情流

将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」より。

 だいたい花村は弟子をとって、弟子に期待すると云った風がまるでなかったみたいだし、すでに48、9を迎えていたが、自分は稀代の”勝負師”だとする自負、自信に溢れて映った。当時の弟子はすでに五段となっていた吉田利勝七段を筆頭に、関口さんのちょっと後で門下に加わった、現在の野本虎次七段と、私の3人が奨励会でもがき合っていた。野本七段は初等科からの卒業生でしばらくは師匠なしのまま奨励会に…。が、ある日。そのころ八段だった五十嵐豊一九段の記録係を務めていた野本君に、「ほう、キミはまだ師匠がなしだったのか。じゃ、花村さんでどうかい?」。五十嵐裁定のもとに、「は、よろしくお願いします」。と、話がとんとん拍子に運んで弟子となり、機に浦和高校の1年であったかを中退し、本格的に将棋の世界に飛び込んだのであった。

(中略)

 ところで私は、19、20歳を迎えるかの頃からときどき微熱をだすようになっていた。が、若さでなあに気のせい?やがて、咳も頻繁に…。と、至っても徹夜したり、遊びに疲れ、疲れては眠るという生活で体をごまかしていた。そのうちだんだん痩せていき、百日咳かにも似たあやしげな咳がいちだんと激しく、神経だけは奇妙な透明感を宿す感じとなっていった。友達は結核かも知ンネエから一度診てもらえと、医者へ行くことを勧めたのは当然であった。

―肺結核―。ここ数年の無軌道な生きざまのツケが…。病状は自分が誰より知っている現象であったし、入院、治療の覚悟みたいなものを決めていたのだが、しかし、この場面でのそれは、死ねと云われるほど困った。

 せめて四段になっていれば。社会保険証書がもらえ、僅かながらも手当がもらえるとして、三段じゃ、第一に入院、治療のメドとてつかなかった。いまさら好き勝手に越してきて花村に相談するわけにはいかなかったし、まして、親に相談できる環境ではなかった。が、咳をすると血が混じる症状へ進み、対局で座っていることもかなわぬ状況となり、傷ついた獣が古巣を目指すように郷里の八戸へ。途中、花村の家の在る日暮里は、東北本線でも、常磐線でも通る。あのときは常磐線の夜行列車であった。いずれすぐ知れることであろうが、花村に黙って郷里へ向かう私は、日暮里、田端と視界から遠ざかっていく駅を眺めていると無性に熱いものがこみあげてきてならなかった。「自業自得」。昭和41年、7月。妙に頭が冴えざえしていた。ただ、激しく咳き込むのだが空を切るのみなのが息苦しく、まんじりともしない夜汽車の”北帰行”であった。しかし、1、2ヶ月もしたら元気になって戻れるだろう。正直なところ心の底じゃ、まだそんな風にたかをくくっていた21歳の夏であった。

 友達も結核なんて旨い物を食って、本を読んだり、音楽を聴いたりしてじっと寝てりゃ治るさ。と、云って勇気づけてくれた。私は一面で読書したり、音楽鑑賞等はきらいな分野じゃないし、そうか…少しの間ならそれもそれでいいじゃないか…という気になって入院した。加え、昔は不治の病と忌み嫌われていた結核であるが、「イイ薬」の登場で昭和41年頃はもう大丈夫な病気に?まだ、現状を軽くみているところがあった。

 入院した時点で医師に訊く。「いつ頃、退院できるでしょうか」「いつ頃?」。医師も返答に困ったであろうが、「いま暑い盛りだから秋風が吹く頃になるかなあ」。そして、入院した夏が過ぎ、本当に秋風が…。「先生…秋ですよ」。「否、これから寒くなり風邪をひくと大変だから、温かくなって春になったら」。春がくると「木の芽どきは病原菌も活発に…」。やがて、2回目の夏が。も、「暑い盛り…」。その秋も、「これより寒くなるし」の調子で阻まれ。しかし、医師は入院、治療費をいっさい取らず、個室までを。費用は出世払いとの暗黙の諒承のもとにおける入院生活であった。しかも、いまだ出世払いの約束を果たせぬばかりか益々遠く…。現在に至るも世話になりっぱなし。なお、後年になってからであるが、医師と花村の間で面白い?ひとこまがあった。

 医師は会議か、所用で上京したおりに連盟へ立ち寄って、赤柾の上等な盛り上げ駒を買い求めて蔵していた。その駒箱に花村の一筆を「ぜひ」の話となり、まずは蓋に手をかけた。なるほど逸品であった。「ところでこの駒は?」。花村は値段のほどを訊いた。医師は自分の目で見比べて、これが良しと求めてきた値段を云った。が、次にでた台詞はまさしく花村流で、「先生これじゃ池田君はあまり儲けていませんよ」。意表を突く台詞がとびだしていた。一瞬。背景が背景だけに、医師はまばたきを…。私は相槌のうちように困った場面となっていた。だが、そんな台詞をさらりと軽やかに云ってのけるあたりの呼吸がいかにも花村流で、それでいて人に嫌味を与えぬ妙な人徳があった。医師は、そのときしばし会った印象で、いかにも博才豊かな相をしていたなあ…と感じ入っていた。

 そうした医師の温情でどうやら入院、治療の方はしのげた。が、入院していても身のまわりの諸々に金が入りようであった。ところが金策のアテがまったく無く途方にくれ、途方にくれたすえ、恥をしのんで或る推理作家に金のむしんを頼んでいた。その作家は、まだ三段だった頃の名人(中原誠)に紹介され、入院する時分まで稽古に行っていた私の唯一の稽古先であった。借金のことは、すぐ若き日の名人に知れる図と…。おもえば中原経由で知り合いになった人だもの、知れようことはごく普通の話であった。

 池田が困っている。当時の名人は、棋士としてデビューしたばかりだが、いまの10代、又は、20歳になりたての棋士も真っ青な勢いで、ただ勝ちまくっていた。その、合間を縫うようにし、ほどなくして私の入院先に現れていた。「………」。頃は、木の葉が少なくなった頃であった。そのときの嬉しさをなんと表現したらいいのか…筆舌にあらわせる言葉もなく、ただ嬉しかった。ばかりか、「身のまわりに月々いかほどの金が必要か?」。そしてそれを毎月送るのだと云う。しかも、退院し社会復帰するまで。「いやあ、いくら友達でもそんなに迷惑をかけちゃ」。「なに云っているんだい。それより早くよくなれよ」。「しかし、いつ退院できるか」。「まあ、何年だってかまいやしないよ。とにかくキミが元気になるまで…」の言葉を残して帰って行った。約束どおり名人は毎月現金書留と便りを。その便りには、今月は先輩の誰々さんも協力してくれて等、諸々が端正で几帳面な字で書いてあった。

 医師と親友。二人の人間がいなかったとしたら私の入院生活は…。いまにして思うに、ただしく奈落の淵を歩いている観があった。

 ともあれ、こうして昭和43年の5月まで臥せっていた。…さて、病気は治ったが…。かの期間中、多少”大人”になった私は、元気になれた顔を真っ先に申し出なくては…と思い、上京するや花村家に直行していた。

 花村の門をたたいてこのかた、早くも8年の歳月がたっていた。が、日暮里、新三河島の街並みはあまり変わりばえしていなかったし、花村も天命を織る歳を1、2歳越したかであったが、勝負勘は衰えるどころか益々冴え、若手も顔負け以上の活躍をみせていた。むろん健康そのものといった艶。あいかわらず屈託をみせぬ朗活さで、寿司などを取ってくれた。

 私は期待しないことだけに驚いたが、なぜ、寿司か?は、すぐにわかった。もはや食客は一人もいなかったけれど、代わりに夫人の弟が世帯を持ち、家の一角で寿司店を。で、食客も居づらく…。しかし、やはり賑やかな花村家に変わりはなかった。

 花村も当然”入院中”のことは知っていた。

 そのせつ、「これからも中原さんと相談して生きて行くといいや…」に続いて、「しっかりやれや…」と。いぜれにせよ、私は黙ってうなずくのみであった。夫人にも、「池田君、早く四段にならなきゃあダメよ」。三段の連中が一番気にしているところをぐさりと衝かれ、花村家をあとにした。

(つづく)

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池田修一三段(当時)が長期入院していた当時、中原誠十六世名人は四段、五段の頃。

当時の対局料の規定では、どんなに勝ち進んでも四段、五段ではそれほど収入に余裕がなかった時代。そのような状況で毎月支援をしたのだから、なかなかできることではない。

昭和31年5月の仙台。池田少年が中原少年に買ってくれたバナナがきっかけで始まった友情。

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「傷ついた獣が古巣を目指すように郷里の八戸へ。途中、花村の家の在る日暮里は、東北本線でも、常磐線でも通る。あのときは常磐線の夜行列車であった。いずれすぐ知れることであろうが、花村に黙って郷里へ向かう私は、日暮里、田端と視界から遠ざかっていく駅を眺めていると無性に熱いものがこみあげてきてならなかった」

この気持ちが痛いほどわかる。

東北本線でも常磐線でも東北新幹線でも、東京を離れるときに目に入る光景は、鶯谷であり日暮里、西日暮里であり田端。

これらの地に思い出があって、なおかつ傷心で北国へ帰るとしたら、堪らない気持ちになるだろう。

なおかつ夜行列車。

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それにしても、いくら当時とはいえ、長期の入院費が催促なしの出世払いとは驚いてしまう。

誰かが本人には内緒でということで支払っていたとも考えられるが、将棋が大好きな担当医でもあったようなので、この辺の仕組みは謎のままだ。

どちらにしても、古き良き時代の素晴らしい話だと思う。

 

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