将棋文化検定受検日記「一夜漬け」

今日は、将棋文化検定の試験がある日。

私はテーマ的に、漫画、詰将棋、アマチュア大会、中将棋などの本将棋以外の将棋、江戸時代が苦手な分野。

それらを少しでも克服するために一夜漬けをしてみた。

キーボードを打ちながら覚える。

(関西将棋会館のホームページやWikipekiaの情報を要約・加工)

〔江戸時代〕

初世名人 初代大橋宗桂

京都の町人の出。

宗桂は将棋の芸としての地位向上に大きく貢献し、江戸時代に入って徳川家康から五十石五人扶持の俸禄を受けることになる。

将棋家元の始まり(1612年)。宗桂が57歳の時のことだった。詰将棋も、宗桂の献上図式が始まり。

二世名人 大橋宗古

宗桂の長男。

宗古が名人に就位したのは59歳の時。

宗古の代に、弟の宗与が大橋分家を、門弟の宗看が伊藤家を立てて将棋三家が定まっている。

宗古は献上詰将棋「象戯図式」の巻末で、行きどころのない駒を打つ(または不成)こと、二歩、打ち歩詰めを禁じ手とし、千日手は仕掛けた方より手を変えるなど、成文化されたルールを発表した。

ちなみに宗古の子、三代宗桂は宗古の死の7年後48歳で亡くなり、三代宗桂の子 宗伝は25歳で早逝し、大橋本家の血筋はここで途絶えることとなる。

(大橋家は伊藤宗銀が伊藤家から養子に入って四世名人五代大橋宗桂となる)

三世名人 初代伊藤宗看

出雲の生まれ。大橋家の門弟で宗古の女婿。

宗看が名人に就位したのは37歳の時。

在野の強豪たち(松本紹尊、萩野真甫、檜垣是安ら)と数多くの対局を行い、 様々な戦型、新趣向を試みて、それまで創世記だった将棋界に格段の技術的進歩をもたらせた。

後世の創作話とされる「是安吐血の一戦」の対局者。

大橋宗伝の早逝で断絶の危機に見まわれた大橋家に、自家が絶える可能性を省みず、嫡男の宗銀を養子に出している。

(伊藤家を継ぐのは、門弟の前田幻庵、後の二代伊藤宗印)

また、江戸期の名人ででただ一人、存命中に将棋所を譲っている。

そういう意味ではドラマ性の高い名人だったとも言える。

四世名人 五代大橋宗桂

三世名人伊藤宗看の子で、大橋家の養子に入った宗銀が五代宗桂を名乗る。

名人に就位したのは55歳の時。

筆まめだったようで、将棋の心得を諭した『象棋百ヶ条』、日記的な『五代宗桂記』の書物がある。

なお、五代宗桂には実子がなく、養子を迎え、宗銀とした。

宗銀は五世名人伊藤宗印の子 印達との五十七番指しを行うが(宗銀の23勝34敗)、20歳の若さで亡くなっている。

五世名人 二代伊藤宗印

備前唐津の出。初代伊藤宗看の門弟だった前田幻庵は、20歳の時に伊藤家の跡目となり、伊藤宗印を名乗る。

名人に就位したのは60歳の頃。

将棋の実力、指導力とも素晴らしく、5人の息子をいずれも高段者に育てている。

五世名人三代伊藤宗看、八段・贈名人の伊藤看寿らが実子。

長男の印達は、四世名人大橋宗桂の養子 宗銀と五十七番指しの争い将棋を指して宗銀を角落ちにまで指し込むが、15歳の若さで早逝する。

宗印は詰将棋の創作も堪能で、 献上図式の通称『将棋勇略』ほか不成百番として知られる『将棋精妙』の二図式集計二百番を著している。

湯川博士さんは2006年に「大江戸将棋所 伊藤宗印伝」を執筆している。

将棋ペンクラブ大賞文芸部門大賞受賞作。

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六世名人三代大橋宗与

初代大橋宗桂のひ孫で、大橋分家からの初の名人。

御城将棋では先輩の五代大橋宗桂と、後輩の二代伊藤宗印の両巨頭にはさまれる形で圧倒されていたという。

20歳以上年下の伊藤宗印が将棋所に就いた時点で、宗与の名人の目はなかったところだが、宗印が先に亡くなり、三代宗看や四代宗与がまだ10代であったため76歳という年齢での名人就位となった。

七世名人 三代伊藤宗看

伊藤宗印の次男。

名人に就位したのは23歳の時。

その実力は「鬼宗看」とも呼ばれ、江戸期の歴代名人の中でも1、2位を争うとされる。

献上図式である『将棋無双』はあまりの難解さから『詰むや詰まざるや』として、 弟看寿の『将棋図巧』とともに図式集の最高峰とされている。

三代伊藤宗看の時代は、江戸将棋界の黄金期。

また、宗看は、技量が不足していると言われた大橋本家の七代宗桂に、弟宗寿(後の八代宗桂)を養子として送っている。

湯川博士さんの著書「秘伝 将棋無双」は出版社が倒産のため絶版になっているが、「将棋無双」の代表的な問題がわかりやすく解説されているとともに、「将棋無双」の美しさ・素晴らしさを体感することができる。

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〔囲碁、将棋家席次争い〕

当時の役職の席次は、①碁所②将棋所③碁方の家元④将棋方の家元の順だったが、碁所に就くものがいないときは、①の席に本因坊家当主が座るという取り決めになっていた。

ところが、当時は碁所が不在の時期が続き、なおかつ本因坊家は知伯、秀伯と2世続いて六段という不振な時代だった。

そのため、1737年に名人の伊藤宗看は、碁打ち優先の慣行を廃止して平等にせよと提訴した。宗看は寺社奉行井上正之の支持も得ており、この要求は通ると思われたが、正之が急逝し、後任の大岡忠相によって訴えは棄却され、この事件は終結した。

贈名人 八段 伊藤看寿

二代伊藤宗印の五男。

御城将棋で4才上の兄である八代大橋宗桂を破って先に八段昇段を果たし、図式献上も終え、次期名人は確約されていたが、42歳で亡くなってしまう。(江戸時代の八段は名人位に相当)

伊藤宗印もその翌年に亡くなったので、その後の27年間は名人不在の時期が続くことになる。

看寿の献上図式である将棋百番奇巧図式、『将棋図巧』は宗看の『将棋無双』と並んで図式集の最高峰とされ、「煙詰」、「裸玉」などが含まれている。

伊藤看寿-大橋宗与戦で看寿が指した▲6九歩は、この手を見た兄の伊藤宗看が「これで看寿が勝てる」と確信(安心)して魚釣りに出かけてしまったと言われる「魚釣りの歩」として有名。

八世名人 九代大橋宗桂

伊藤宗看の弟で、大橋本家に養子に入った宗寿(八代宗桂)の子。

名人位の27年の空白の後、46歳で名人に就位。

献上図式は、八代、九代宗桂親子で取り組んだ『大綱』・『舞玉』。

詰将棋の名手として知られる。

九世名人 六代大橋宗英

大橋分家五代大橋宗順の子。大橋宗順は大橋分家に養子に入っている。

宗英は庶子(正式な婚姻関係にない両親から生まれた)であったため、幼少の頃里子に出されていたが、将棋の才能を認められ呼び戻されて家督を継いだと伝えられる。

43歳で名人に就位。

宗英は家元制で最強の名人とされ、また従来の戦術、大局観に一種の革命をもたらしたため「実力十三段」、「近代将棋の祖」とも呼ばれている。

玉を固めて捌く、焦土戦術を厭わない指し方や、 玉頭戦での厚みを活かした負けにくい戦い方などの思想は宗英が始まりとされる。

この感覚は、天野宗歩などによって発展・洗練されて、現代将棋への道が作られていった。

宗英は詰将棋を一切創作せず、献上図式の慣習を途絶えさせている。

詰将棋創作にあてる時間を惜しみ。その分を実戦の研究に集中したからではないかと言われている。

御城将棋の日に出勤したが急病を起こし退席、帰宅後まもなく息を引き取ったと伝えられる。

十世名人 六代伊藤宗看

江戸時代最後の名人。前名 松田印嘉。

「荒指しの宗看」とも呼ばれ、攻めっ気の強い棋風で、数多くの新手を開発した。

3人の男子(看理、看佐、金五郎)をいずれも高段者に育てたが、皆、身持ちが良くなく宗看の後を継ぐ事はなかった。

宗看の死後、江戸幕府の衰退・崩壊とともに、35年間の名人不在の時代が続く(1843年~1878年)。

十一世名人八代伊藤宗印

前名上野房次郎。 家元最後の名人として、明治維新以後の棋界再建に尽力した。

53歳で名人に就位。

弟子には、小菅剣之助名誉名人、関根金次郎十三世名人などがいる。

将棋雑誌「将棊新報」を発行するなど、将棋の普及に力を入れたが、後に十二世名人となる小野五平とは、昇段などの件をめぐり対立し、将棋界は分裂状態となってしまう。

上流社会での普及をはかろうとした小野五平と、一般への幅広い普及に力を入れた伊藤宗印。

天野宗歩の指導を受け大橋本家発行の免状を得ている小野五平と、伊藤家。

不仲になる要素がたくさんあった二人だが、棋界は分裂し、専門棋士で生計を立てることが困難な時代が長く続くことになる。

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〔本将棋以外の将棋〕

平安将棋(8×8マス、9×8マス、あるいは 9×9マス)

平安大将棋(13×13マス)

小将棋(9×9マス)

中将棋(12×12マス)

大将棋(15×15マス)

天竺大将棋(16×16マス)

大大将棋(17×17マス)

摩訶大大将棋(19×19マス)

泰将棋(25×25マス)

大局将棋(36×36=1296マス) – 最大の将棋和将棋

〔海外の将棋〕

チャトランガ(古代インド)

マークルック(タイ)

チェス(欧米~世界)

シャンチー(中国)

チャンギ(韓国・北朝鮮)シャタル(モンゴル)

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途中から酒を飲みながら書いているので、試験の頃は覚えていないかもしれない。

それにしても、大橋家、伊藤家、大橋分家とも、将棋の面では初代の血筋が絶えていることを初めて知る。

血筋を絶やさないということは本当に難しいことだ。