故・真部一男九段の少年時代

真部一男九段が亡くなったのは、5年前の今日のことだった。

今日は、故・真部一男九段の命日。

将棋世界1997年1月号、真部一男八段(当時)の「永遠の師 加藤治郎」より。

1996年11月3日に86歳で亡くなった加藤治郎名誉九段。真部一男八段(当時)による師匠への追悼文。

 32年8ヵ月、加藤治郎は私の師匠であった。そしてこれからも、いつまでも師であり続ける。

 昭和39年2月下旬、母の知人で元慶応大学将棋部木村豊太郎氏の御紹介を得て、加藤教室の一員になることが出来たのは、私にとっては真に幸運であった。

 晩年もそうであったように、その当時も先生は和服を召しておられた。

 沢山の御弟子を前に、微塵も尊大な素振りはなく、威厳、優しさ、暖かさが12歳の子供にも感じられる御人柄であった。専門家の指導対局というものに接するのはもちろんこの日が初めてである。

 御弟子達の棋力に応じて先生が駒を引き、終局後初手からおさらいがあり、講評を授かる。御弟子の殆どが30代から50代の方々であったから、いささか緊張もしたが、それ以上に大好きな将棋にどっぷりと浸っていられるその空気に何とも言えない幸福感を味わっていた。

 何局かの指導の後、私が教わる番になった。駒を並べ終わり先生は飛車と角を静かに駒袋に収められた。二枚落ちである。当時の私の棋力と言えば、永井英明社長の近代将棋池袋道場で、1週間ほど前に5級と認定された程度の代物であり、引退されて15年経つとはいえ(先生は昭和24年に引退されていた)下手に歯の立つ手合ではない。

 かなり善戦したものの当然負け。さて手直しの段になった時、先生は謎の行動をとられた。

 これまでの御弟子の方々には一局のポイントになる局面を再現し、ここでこう指せば下手が勝ちであったというような解説をされていたのだが、私には講評は一切されずに、黙って駒を初手の配置に並べ直し、もう一局指そうと言われた。

 私は内心「あれっ何で僕だけ違うんだろう」と思いながらも、もう一局教わる嬉しさが先立ち、大して気にも留めなかったが、この出来事が私の心のどこかに残り、プロを目指す要因の一つになったかもしれない。

 2局目またしても負け、当たり前である。今度は先生の手直しを受けた。

 下手の陣形は銀多伝、中盤への入口上手が8五金と角道の歩を取りに来た時下手は7七金と守った。

 その手に対して先生は、その歩は取らせても良いのだと解説して下さった。

 その時ヘッポコ5級は何と答えたか。

「でも先生、近代将棋の花村八段(当時。後に九段。個人)の駒落講座ではこの手が良いと書かれています」とやってしまったのである。しかもその後数手の講釈までつけて、嗚呼やんぬるかな。

 その日、同行していた母は豚児のあまりの愚挙に身がすくむ思いだったと、帰宅後慨嘆していた。

 だが先生はそんな阿呆な子供に対しても、気分を害された様子もなく、「ああそうか花村君がそう書いているか」と言われただけで、後は何事もなかったように解説を続けて下さった。

 そして最後に「君はなかなか中終盤が強いな」と褒めていただいた。この一言がどれだけ自信につながり励ましになった事だろう。

 後年、理解出来るようになった事だが、先生は大変な褒め上手であった。

 それも褒めて人に好かれたい、とか何か利を得るとかいったものではなく、相手の長所を的確に見抜き、評価する事に依って人に自信をつけさせる達人であったように思う。

 これは鈴木君(輝彦七段)から聞いた話だが、彼の猛烈な早口は知る人ぞ知る所で、脚本家の林秀彦さんは彼と知り合った当初は、その余りの早口を聞き取るには私の通訳が必要だった程である。

 その鈴木君が先生に「頭の回転が速い人間は早口なんだ」と言われたと嬉しそうに話していた事を思い出す。

 先生は秀れた心理学者であり教育家でもあったが故に、御弟子の方々、若手棋士、新聞社、連盟事務局等々に信望が厚かったのであろう。

(つづく)

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昭和40年代までのNHK杯将棋トーナメントの解説の定番は加藤治郎八段(当時)だった。

非常にわかりやすい解説、味のある話。

聞き手の倉島竹二郎さんとは絶妙のコンビだった。

加藤治郎名誉九段は、将棋ペンクラブの初代名誉会長でもある。

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銀多伝での下手▲7七金、いかにも花村元司九段らしい駒落ち講座だ。

下手殺しと定評のあった花村九段による駒落ち講座だから迫力がある。