谷川浩司王位(当時)の富士登山

将棋マガジン1988年10月号、「インタビュールーム’88 谷川浩司名人の巻」より。記は大崎善生さん。

 いつも追い込まれているような精神状態、焦燥感、重要な一番恐怖症。自分の中にある様々な負の部分を、谷川九段は自己変革する。指さなければならない将棋から、指せる将棋へとベクトルの方向を転換し、そしてやがてそれは将棋を楽しむ心へとつながっていく。

 夏の王位戦の最中、谷川九段は日程を利用し、そして、それ以外にも沖縄へ出かけたり、と全国を遊び回った。じっとしていると、どうしても将棋のこと、結果のことばかりを考えてしまうから、とその動機を語っている。自分と将棋の正しい距離を模索し、それを保とうとする意志がそういう行動を取らせたのだろう。

「何人かで富士山に登るんです」。

 王位戦の最中、電話でふとそんな話をした。

「いつからですか?」。

「8月30日」。

 そんな会話を交わした数日後の王位戦第5局、取材で訪れた『陣屋』の記者控え室に、対局中の谷川九段がフラリと現れた。

「あさってですよね」と尋ねられた。

「えっ?」と聞くと、笑って「富士山ですよ」。そして続けて「私も登ろうかな。実は行きの新幹線の中でガイドブックを買って調べたんです」そう言って、対局室に舞い戻っていった。

 王位戦第5局で、谷川九段は高橋王位を4勝1敗で降しタイトル奪取。5ヵ月の無冠に終止符を打つ。

 深夜に感想戦を終え、打ち上げ、軽く卓を囲み、午前3時頃谷川王位は自室に引き揚げた。翌日、東京で対談を一つ済ませ、そしてそのまま車で山中湖畔の国民宿舎へ。翌朝4時起床、5時には信じられぬことに、谷川王位も五合目登山口に立っていた。

 当日は快晴だった。

 途中、苦しみ、アゴを上げながら、それでも谷川王位は一歩一歩前進した。内心、早く誰かがやめようと言い出さないかと期待していたという。きつい岩場をいくつか超え、胸突き八丁を超えたあたりからペースが良くなっていった。下を見渡すと、出発点の五合目がはるか下方に見え、勇気が湧いてくる。その向こうにはくっきりと日本アルプスの山並。

 何度か嫌になりながら、五合目を出て約7時間半、下から見ると届きそうでいて、中々近づいてはくれなかった、憎たらしい山頂の鳥居が、今度は本当に目に前に立っていた。

「ヤッター」、誰からともなく歓声が上がった。

 本誌口絵用に、山頂でVサインを送る谷川王位の姿。それは一歩一歩、自分の足でスランプから登り始め、”将棋を指せる”気持ちを取り戻した王位の精神状態とオーバーラップして、何とも晴れやかで自信に溢れて映った。

「おとといの王位戦、名人を奪った時のことさえかすんで、随分と昔のことのようです」

 下山途中で、谷川王位は息を切らしながら、そう語った。この時に、谷川新時代は静かに幕を開けていたのかもしれない。

(以下略)

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この富士登山は1987年のこと。

谷川浩司名人(当時)が、対局数過多などに起因するスランプから脱却したきっかけが語られている。

「楽しむ心」、どのような分野においても非常に大事なことなのだろう。

将棋マガジン1987年11月号より。

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富士登山は7月~8月がシーズン。

6月以前、9月以降は閉鎖される登山道があったり山小屋が閉鎖されたりと、登山には適さない。(五合目周辺の観光は11月頃まで楽しめる)

タイトルを獲得した翌日あるいは翌々日の過ごし方として富士登山を選ぶ気合いが、この翌年(1988年)、中原誠名人から名人を奪い返す原動力の一つになったのかもしれない。

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将棋界で、”登山”といえば小林宏七段。

将棋世界2000年1月号付録、「2000年棋士名鑑」の小林宏六段(当時)の項によると(抜粋)、

 本格的な登山愛好家としても知られている。二段時代が奨励会生活の約4割と長く、その頃によく山道具屋に通ってザイルやハンマーなどを少しずつ集めた。

「遭難すると強くなれるんですか」と聞かれて「ソウナンですよ」と駄ジャレで答えたのは三段に昇段した時。

とある。

小林宏七段が二段の頃、冬の谷川岳で遭難しかかったことがあったが、その直後、長く足踏みを続けていた二段から三段に昇段した。

そのような状況下で、このような質問があったのだろう。

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あれは大学1年の時だったか。

親戚の家に行ったら「山と溪谷」という初めて目にする雑誌が置いてあった。

パラパラとめくってみると、登山に関連する様々な記事が。

このようなマニアックな本があるなんて信じられない、と思ったのだが、よくよく考えてみると、「将棋世界」や「近代将棋」も分野は違うものの、登山愛好者などから見たら同じように思われるのかなと気付き、すべてを自分の価値観の物差しで測ってはいけないということを実感したのだった。