将棋世界2003年8月号、作家の常盤新平さんの「名人閑話 ―羽生善治竜王・名人にきく」より。
ここで「天才とは何か」ということを訊いてみた。ある国語辞典では天才とは「生まれつき備わっている、きわめてすぐれた才能。またその持ち主」と味もそっけもない。
羽生 どういえばいいんでしょうかね。たとえば伊藤看寿という人は指し将棋も強かったのですが、詰将棋にすぐれた作品をたくさん残しているんです。今、この人に匹敵する人がいますけど、彼は十代のころにそれらを作ったんですね。
私は十代のころにその詰将棋を必死に解いていたんです。彼の作品を見て、この人は天才だと思いました。将棋にはルールがあって、そのルール(制約)の中でこんな作品を作っている。こちらが懸命に考えて解いていたときに、この構想、こういう表現。理屈じゃなくて、この人はほんとうに凄いんだと感じました。
この人の詰将棋の問題集があって、一日に一題解ければ、その日はいい日でした。二題解ければ、万歳。解けないことの方が多かった。大体は解いたんですが、解けない問題も四題ぐらい入っているんですよ(笑)。全部解答があるとは限らない。華麗な順というか、見ている人をアッと驚かせるところが、詰将棋の魅力です。華麗なコンビネーションがあるといいわけです。
でも、詰将棋と実戦とでは違うのでは?実戦だからこそ羽生マジックが出てくるのでは?
羽生 もちろん違うわけですが、実際の将棋にも指し手の華麗なコンビネーションはあります。実戦では粘りの手を指したり、自陣に金を打ったり、かなり現実的で泥くさいところがあります。
自分の意識の中では、なんかこうマジックみたいなものがあって、相手を惑わせたり、騙したりするとは思わないんです(笑)。してるつもりはまったくないんです。自分から攻めていくときに、相手がこの手を指してきたら、これで逆転の一手があると罠を張るというようなことは基本的にはしていないつもりなんです。
また、自分が不利になったときには、一番平凡に普通に指すのが一番いいと思っているんで、なるべくトリッキーじゃない手を選んで指しているんです。
実戦では自分が考えていることと相手が考えていることとが違う場合がよくあって、結果として思わぬ方向にころがっていくことがあるんですね。だから、展開としてあと十手ぐらいで勝負がつくんじゃないか、どっちにしてもゴールはもう目の前だと思ったところから、お互いに反対方向に走ってしまって、中盤に逆戻りするということがあります。こういうことってよくありますね。詰将棋は自分が予期していること、考えていること、思い描いていることの表現ですが、実戦の場合は予期せぬことがあって、どうしようかと考える。
(つづく)
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よくよく考えてみると、羽生善治三冠から見た将棋界の天才、という話は、なかなか聞くことはできないと思う。
「自分が不利になったときには一番平凡に普通に指す」ということは、いろいろな分野で活用できることなのかもしれない。