森下卓六段(当時)の軍事機密

将棋世界1990年2月号、脚本家の石堂淑朗さんがホストの対談「石堂淑朗の本音対談」より。

ゲストは森下卓六段(当時)。

石堂 竜王戦の決勝で羽生さんとやって、あなたが負けちゃった訳ですけど、ああいう時、顔も見たくないと腹が立つことはないですか。

森下 そりゃあ、やっぱり、負けるとアツイですよ(笑)。頭にきますよね。

石堂 僕なんか解説でしか分からないんだけど、どうもあなたが勝っている将棋を落としているという感じがしますけど。

森下 1局目はずっと難しいと思っていたんですよ。まだまだ分からないなあと思っていたら、羽生君がいきなり勝負手を放ってきたんです。こちらはびっくりしまして、そんな手をやってくるんだったら、勝ちになったと思ったんですよ。

石堂 勝負手というのは、どういう意味なんですか。破れかぶれの手を放ってきたということ?

森下 彼は苦しいと思ったらしいんですよ。普通にやったら、負かされると思ったんじゃないですか。

石堂 苦しい時は戦線拡大しろと、いいますね。いわゆる妖しい手でこられたって感じですか。

森下 妖しいといいますか、いきなり勝負ときたんですね。違う手でまだまだ難しいと思って、いろいろ悩んでいたところに。そして勝ちになったなと思った瞬間、急に時間が気になりましたね。それまで普通に考えていたのが、残り時間が気になり始め、読みに腰が入らなくなりましたね。きちんと深く読むというよりも、何となく読みを打ち切って、また次に考えようという風になりました。とことん最後まで勝ちを読み切る気迫が欠けていましたね。確かに、彼は勝負勘が優れていると思いますねえ。

石堂 ある種の勝負師みたいなところがあるんですか。

森下 彼は典型的な勝負師だと思いますよ。僕なんかと、はっきり違います。

石堂 勝負師というと、プラス、マイナスいろんな意味がありますね。

森下 僕でしたら、恐らくそういう勝負手を放つよりも、負けるかどうかは別にして、手の長い方を選ぶと思うんです。だからジリ貧負けがよくあるんですけどね。

 羽生君は相手との間合いを計るのが、うまいですよ。自分で切り開いて行くというよりも、相手の手に対して、何かやるという。レスリングでいうと、ロープに振られた反動で行くような感じがします。升田将棋や谷川将棋とは、はっきり異質だと思いますね。

石堂 大山、米長タイプですね。

森下 大山先生もそういう感じですけど羽生君のはもうはっきり分かりますね。彼は振り飛車やっても勝率がいいのは、そういうことがあるんじゃないですか。

石堂 古来、日本の武道はみなそうですね。相手の力を利用するということは、勝負の要諦ですからね。自分も指すが相手も指す。その相手の力を頂く・・・。

森下 僕は一時、受け将棋だって言われたんですよ。自分ではその意識はないんです。というのも、攻める場合万全を期するんです。守りを固めて、攻撃態勢もがっちりやっていくうちに、相手に先に攻められるというパターンが多かったんですね。

石堂 なるほど。

森下 僕がやっぱり勝負師じゃないと思うのは、例えば勝負師というのは少ない駒で勝負するのが多いですね。僕は飛車を3枚ぐらい持っていたいところがあって、少ない兵力で向かって行くのは非常に不安な方です。勝つ態勢を作って確実に勝つタイプなんです。

石堂 私自身がやっぱり勝負師的なところが、ほとんどない人間だから、そういう気がしますよ。それは、あなたも僕も子供の頃、どこか甘やかされて育てられたから。

森下 いやあ。もう、それははっきり分かりますね。

石堂 僕はお祖母さんに育てられて。厳しくしているつもりでも、孫だからどこかで甘くしちゃう。あなたもお祖母さんに可愛がられすぎたんじゃないかという気がする。

森下 僕は祖母もそうなんですけど、師匠からも叱られたことが一度もないんです。痛い目に遭わされたということはないんですよ。その甘さが出ているのかなという気はしますね。

石堂 それはあなたが幼にして持った人徳だからいいんですけどね。

森下 僕の将棋を見ていますと、異常に歩の数が多いんですよ。

石堂 歩の数というと。

森下 持ち駒に大体、歩が5歩とか6歩あるんです。

石堂 へえー。

森下 といいますのも、連打の歩が苦手なんです。何かタマを無駄使いしているようで。だからタタくべきだなあと思っていても、一つ控えたりするんですよね。

石堂 将棋は歩からと言うじゃありませんか。

森下 ええ、タレ歩とかツギ歩は得意なんですけど、連打の歩は打ちにくいんですよ。ついつい遠慮しましてね。

石堂 連打の歩って、嫌らしいと思うんですか?

森下 いや、何かもったいない気がするんです。連打すると。

石堂 じゃあ、敵は”彼は絶対連打してこないから”という指し方をしてくるんじゃない(笑)。

森下 軍の機密だったんですけど(笑)。ちょっとこだわりすぎているところがあると思います。歩を貯めこんでも、結局は一手に一歩しか使えないんですからね。たくさんあってもしょうがないんですけど、やっぱり少ないと不安になっちゃうんです。それで今、平気で連打の歩とか捨て駒をできるようになりたいな、と思ってますね。これからの課題です。

(以下略)

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森下卓九段の「駒得は裏切らない」という名言は有名だ。

駒得を非常に重視しており、歩得にもこだわりを持つ。

この対談では、その思想の奥義が明かされている。

「飛車を3枚持っていたい」も名言だ。

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森下卓九段の師匠の故・花村元司九段は”歩の突き捨て”が得意だった。

花村元司九段に毎日のように平手で教わっていた森下卓少年の駒台は、いつも”歩の山”。

駒台に歩が5枚あるのが普通で、それを見た人が、歩5枚を「1森下」と言ったという。

歩が10枚なら「2森下」だ。