1989年に行われた棋聖戦挑戦者決定戦、屋敷伸之四段(当時)に敗れた高橋道雄八段(当時)は、投了後10分あまり一言も発することなく、感想戦をせずに帰った。
→高橋道雄八段(当時)「まずい将棋を指して、申し訳ありません」
今日は、その時の将棋がどのような内容だったのか見てみるとともに、高橋道雄八段の思いに迫ってみたい。
将棋世界1990年1月号、中島一彰さんの「第55期棋聖戦挑戦者決定戦 恐るべし!屋敷、檜舞台へ」より。中島一彰さんはこの対局の新聞観戦記を担当していた。
四段になって僅か1年。順位はC級2組の後ろから数えて3番目。現役最年少棋士、17歳と10ヵ月の屋敷伸之四段が、タイトル戦の檜舞台に躍り出た!
第55期棋聖戦挑戦者決定戦は、11月27日、東京将棋会館で行われたが、137手までで、屋敷伸之四段が高橋道雄八段を破り、”史上最年少タイトル戦登場”という快挙を成し遂げた。
屋敷先手で始まったこの戦い、高橋は序盤で趣向をこらし、矢倉模様から”右玉”に展開したが、大一番に、この慣れぬ作戦は疑問符が付いた。この点は高橋自身も認めたが、それより屋敷の指し回しをほめるべきだろう。
(中略)
この一戦は1図のような出だし。
屋敷伸之四段の矢倉に対して高橋道雄八段の右玉。
その後、膠着状態が続き、2図。
後手陣はツノ銀向かい飛車の陣形に。
先手は銀冠に組み替えたのが好着想。
戦いは起こらず、3図まで進む。後手からは手を作れない。
手詰まりの後手。先手は金銀4枚の堅陣。
先手の陣形は高橋八段好み。
高橋八段は逆を持って指したかったことだろう。
右玉の後手陣は、駒組みに伸展性が乏しく、指し手が進めば進むほどに、苦境に陥っていった。
3図は、80手目の局面。驚くなかれ、ここまで駒のぶつかり合いはひとつもないのだが、すでに後手大苦戦(高橋)なのであった。
満を持していた屋敷は、ここから一転して激しく襲いかかる。
▲4五歩! 以下△同桂▲同桂△同歩▲同飛と桂交換。高橋は、△4四銀直~△4五歩と、押さえ込みの方針を打ち出したが、そこで▲1五歩と端を攻められ、シビれてしまった。
△同歩は▲1三歩だ。苦吟の末、高橋は△6三桂と打ち、▲1四歩に△5五歩と、懸命の反撃を試みたが、スーッと引いた▲6八角が好手。
以後の後手の攻めも、空転するばかりとなった。
(中略)
4図、▲7六香に対して持ち駒のない後手は、なすすべがない。
△4六歩と迫るが▲7四歩と厳しい一着・・・
そして投了図。
▲3一馬と指された後、高橋八段は7分考えて投了している。
「(3図から8手後の)▲1五歩からは、勝負所がありませんでした。申し訳ありませんが、指し手についての感想はしゃべりようがありません」と、局後の高橋。
いかにも高橋らしい敗戦の弁だが、事実その通りの展開で、屋敷は危なげなく勝ち切った。
夕食休憩再開後間もなく、高橋無念の投了。粘るに粘れず、攻めるに攻められず―。
敢えて指すなら△6七歩成くらいだろうが、▲7二桂成△同玉▲7五馬と、角を素抜かれて、それまでだ。
自身の拙戦ぶりに、ブ然とした表情の高橋。
成し遂げた自分の快挙に、我を忘れたかのような屋敷。ようやく小声で一言、
「信じられません……」。
言葉はほとんど交わされず、また盤上で手が交錯することもなく―。とうとう投了図の局面は、感想戦が終了するまで、全く動かなかった。
(以下略)
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今回、棋譜を並べてみたが、右玉→手詰まり→駒を組み換えてツノ銀振り飛車の形に→手詰まり→駒を組み換えて3図→その8手後の▲1五歩で勝負あった→その後は苦しい指し手ばかりが続く、という流れ。
まったく高橋八段らしくない展開。
高橋八段の怒りは300%、自身に向けられていたことが分かる。
たしかに、感想戦で感想をしゃべるのが難しい。
苦しさを忘れるために酒を飲む人もいるが、苦しさを感じるために酒を飲む人もいる。
高橋道雄八段の沈黙は、自らに苦しさを与えるため、感じるための10分間だったのだろう。
高橋道雄八段が感想戦をせずに帰ったのは、この場合は、とても男らしく格好いい、と強く感じる。