木村義雄十四世名人「金子さん、金子さあん」

将棋世界1990年3月号、故・北楯修哉八段(当時)による金子金五郎九段の追悼記より。

 最長老、金子金五郎九段が亡くなられた。

 88歳だから天寿を全うされたともいえるが、将棋界にとっては二つとない宝物を失った感じで、惜しむ言葉も出ない。

(中略)

 私の奨励会時代、金子さんには強烈な思い出がある。

 故・金易二郎名誉九段と金子さんの対局で、私が記録係をやらされた。夜の12時近くになって、金子さんが歩を持ち上げ二、三度叩いてから1五歩と突いたかに見えたが、すぐ歩を戻し、別のコマを動かした。

 金さんは無言で、このコマをどかした。金子さんはビックリした様子だったが、”金さん、私はコマを手から放していませんよ、叩いただけですよ待ったじゃない”と頭を下げる格好で、どかされたコマを同じ場所に置いた。

 こんどは金さんが、そのコマをハジきとばした。金子さんはムッとした顔つきでコマを戻す。金さんはハジキとばす。

 四、五回のくり返しだったが、昔流行った女の子のオハジキを見ているのなら楽しいが、オジさん同士ではサマにならない。

 私は困ったというより、おかしくなって見ないようにしていた。”ボク手を放していないよな、キミ”と金子さんは私に呼びかけてきた。

 私も若かったから、”待ったの決めはつくられていないんですか”と逆に聞いた。

”そんなもの、あるわけない”と金子さんは叱る調子で答え、憮然とした様子でハジかれたコマを眺めている。

 私は別室で原稿を書いている故・木村十四世名人(私の師匠)のところに走った。

”困ったヤツだな”と名人は渋々立ち上がり、二人に向かって、”こんなにおそくから、もめごとを起こされては困ります。もう終盤じゃないですか”静かに、しかも重みをつけて言った。金子さんが何か言おうとしたら、”金子さん”と、こんどはキツイ声で呼びかけた。

 とたんに金子さんは”先輩に対してすまないことをした”と言って1五歩と指した。

 立派な態度であった。名人はやわらかい調子で”金子さあん”とニッコリした。

 勝敗の結末は記憶がうすれたけれど終了時に、金子さんは複雑な笑いをしながら私に”ご苦労さんだった”と声をかけ、天を仰ぐしぐさをした。

 あの笑顔は私の脳裡にハッキリと焼きついている。

(以下略)

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故・金易二郎名誉九段は、非常に誠実・温厚、旧・日本将棋連盟の会長も務めている。

棋士番号は1番。

東京将棋界と反目した坂田三吉が唯一心を許していたのが金易二郎名誉九段だった。

指そうとした1五歩が好手だったとしても、金易二郎名誉九段は同じことをやっていただろう。

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金易二郎名誉九段は故・高柳敏夫名誉九段の師匠かつ義理の父。

中原誠十六世名人が高柳家で内弟子だった時代、金易二郎名誉九段は中原少年を孫のように可愛がった。

将棋も指した。

その時に金易二郎名誉九段がよく使っていた囲いがヒントとなって、中原囲いが生まれている。

中原囲い創世記

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金子金五郎九段門下は、小堀清一九段、松田茂役九段、山田道美九段。

”腰掛銀の小堀”、”ツノ銀中飛車の松田またはムチャ茂”、”山田定跡”と呼ばれた、実力・個性ともに兼ね備えた棋士ばかりだった。