郷田真隆王位(当時)「あっ、この子には見覚えがある」

将棋世界1993年1月号、池田弘志さんの「郷田王位がゆく!! 第1回 飛車落ち新定跡誕生か!?」より。

 ”先ちゃんにおまかせ”のバトンを受けて、1993年の新連載に登場するのは郷田真隆棋王である。この企画の実現を耳にした先崎五段は編集部員に「原稿は神経が疲れます。原稿を書くより、王位を取った方がいいですよ」と笑いながらも、郷田王位へ挑戦状をつきつけたという。最後の最後まで人を笑わせるサービス精神を忘れない若者だ。

 郷田王位の起用・・・本誌編集部の狙いはスター性豊かな郷田王位の魅力を、将棋ファンの皆さんに知ってもらうこと。そしてこの企画を通して、皆さんの棋力が香一本でも強くなって頂くことだ。

 欲や名声にこだわらず、将棋そのものに打ち込む郷田王位には、中原名人がタイトルを取って登場してきたときと同じ雰囲気がある、と評する先輩棋士もいる。

 さて、連載第1回の指導対局は、千葉県北習志野将棋クラブ(原子正博席亭・所司和晴六段師範)に赴いて指す。

(中略)

 対局直前、棋譜をとる小学6年生のK君を、所司六段が郷田王位に紹介した。「あっ、この子には見覚えがある」と郷田王位。所司六段門下生で、1992年度の奨励会を受けて合格した二人のうちの一人がK君。試験当日、会場に出席した郷田王位をK君は大学生くらいに思っておしゃべりしたそうな。あの人が郷田王位と知って、K君は顔を赤く染めた。

「合格、よかったね」との王位の祝福に「いやぁ、初手合いから、いきなり6連敗しましてね」と所司六段が苦笑い。

「心配ないですよ。初めから勝てなくても、後で強くなれば、それでいい」と、郷田王位は言い切る。援軍としてはこれほど強力な言葉は他にあるまい。というのは郷田王位自身、同じ小学6年生で6級に合格した折、同期で入会した羽生少年に初戦でバッサリ切られ、森内少年にも切られ、なんと9連敗。その直後、郷田少年は7級に落ち、今の中井広恵女流名人とテール・エンド争いをした・・・。

 また、奨励会を平均して6年で抜け出すところを、郷田王位は7年半ほどかかった。郷田王位の場合、奨励会在籍中にその強さを見込まれたために、手合いの付け方をより厳しくされ、鍛えられた。それで強くなったという風説もある。

(以下略)

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「郷田王位がゆく!!」は、郷田真隆王位(当時)が全国の将棋サークルを回り指導対局をするというもの。この回は、駒落ち四面指しを2回指している。

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郷田真隆6級の奨励会初戦の相手が羽生善治6級だったということは、羽生6級にとっての奨励会初戦の相手は郷田6級だったということになる。

意外と知られていない事実だ。

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所司門下のK君は、宮田敦史六段と同い年で同じ時期に奨励会に入会している。

郷田王位が大学生に間違えられた時は21歳。顔を知っていなければ大学生に間違えられても不思議ではない年齢だ。

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テレビや新聞や雑誌が生まれる前はもちろんのこと、写真が発明される以前の時代、どんな有名人でも一般に顔を知られることはなかっただろう。

源義経が、「私が源義経です」と言っても、初対面の人に信じてもらえたのだろうか。

そもそも当時はマスコミがないので、源義経が有名人であることを知るのは源義経の死後のことだったかもしれない。

明智光秀が落ち武者狩りの農民に殺された時、農民は明智光秀と知って討ったわけではなく、身分の高そうな武将を手当たり次第に討ったのだろう。

そういう意味で考えると、江戸時代以前は、水戸黄門や暴れん坊将軍のようなことも比較的容易に実行できていた時代だったということができそうだ。