真夜中に来た真剣師(後日譚)

湯川博士さんの「一手劇場」より、週刊将棋1986年6月4日号に掲載されたヒューマンファイリング「闇に舞った真剣師」。

 まだ正月気分が抜けない1月16日の夜、過去に埋没しかかっていた男が、最後の人生舞台を演ずるべく、一本の電話をかけてきた。

 電話の声は重く沈み、まるで地底からかかってきたかのようでくぁる。

 「オレ、吉田だ。いま、ひどいところへ入れられている。なんとか来てくれッ」

 あたりをはばかるのか、抑えつけるような、それでいて必死の思いが込められている。

 「ケガで入院しているが見張られて出られねェんだ。医者も看護婦もグルに違いない」

 場所は、長野の大町という。

 吉田とは7年前の夏に一度出会っただけ。しかし強烈な印象が筆者の頭の隅に定着していて、一度も出て行ってくれなかった。突然の申し出に、すぐにはちょっと、と答えると電話が切れた。

 あれからどういう道をたどって、長野まで流れていったのだろう。

 当時、吉田とともに筆者宅に泊まった強豪Aさんの話・・・。

 「吉田さんに誘われて、よく旅回りしたっけなあ。はじめは49年にオレんとこ訪ねてきて、そのまま1ヵ月ぐらい旅に出た。なんかウマが合ったんでしょうねェ。それからは毎年やってきて、栃木、福島、宮城、岩手、秋田。青森もちょっと行ったナ。あと新潟、山梨なんか割りとよくってネ。旅の経費をもうけから引いて、残りを折半という形だった。お金はキチンとしていて、いつも胴巻きにはかなり入っていたようだった。オレなんか金あると競輪でみんなスッちゃうけど、あの人は酒もバクチもやらねェもんな。もうかったからってタクシーにも乗らねェで、ぜいたくといえば、勝ったときにサウナに行くのがただ一つの楽しみでネ」

 吉田から二度目の電話が入ったのは、二日後の夕方。

 「早く来てくれんか。ひどいところなんだここは」

 このときは話の最中に小銭がなくなったのかプツンと切れた。

 電話の声が前よりもひっ迫していたようで、切れたあとも思わず受話器を見つめてしばらく茫然としたほど。

 その後いろいろ想像してよく眠れず、ウトウトしたところでけたたましい電話の音、まだ暗い冬の午前5時である。

 「朝早くからすいません。私、諏訪警察の者ですが、吉田穣児という方ご存知でしょうか」

 ええ,まあ・・・。

 「どういうご関係ですか」

 先方の要件が分からないため口をきかないでいた。

 「実は、午前1時ごろ、茅野市金沢の国道20号で、トラックにはねられまして重体です。おそらく意識は戻らないでしょう。それで身元が分かりませんので、お電話しました」

 吉田の所持品は貯金通帳とノート。ノートには棋譜がギッシリと書いてあり、余白に筆者の電話番号があったという。幸い、吉田の新潟の実家を控えてあったので教えてやった。

 7年前、吉田とAは大きな勝負に勝ったあと筆者宅に泊まった。二人は二、三日ゴロゴロしていて、いつの間にか消えていた。荷物は持たず、岩波新書を一冊忘れていった。再びAさんの話。

 「あのあとは大宮に行ったんでしょう。大宮では昔吉田さんが道場を預かったりして、お客さんがいたから。そのあとは山梨かな。国鉄の職員で強い人がいて何百番も指しているから。さもなかったら千葉の木更津。そこにもいいお客さんがいて、吉田さん盤だの駒だの買ってもらっていたっけかなあ。

 各地にお客さんがいてオレも連れてってもらったけど、自分の出身地や家族のことはひとつもしゃべらなかった。オレもだいたい知っているけど、長野の茅野なんてところにはなんにもないし、どうして行ったんだろうなあ・・・」

 吉田がはじめ入院していた大町から事故にあった茅野までは約80kmもある。そもそも長野へはどういうことで行ったのだろう。

 大阪は新世界、通天閣下の将棋クラブで、真剣界の長老Oさんの話。

 「吉田君、去年の11月頃やった、ひょっこり来おって、なんか仕事ないかァいうて、なんや顔色悪うて、態度もいつもと違うて変やったワ」

 脇の男の人。

 「そや。なんやらヤクザに追われているとか、ここには山口組いますかいうたり、けったいなこといっとったでェ」

 「吉田君、このへんヤクザの本場や、そんなもんなんぼでもおるぞォいうたら、ビックリしとったワ。ハハハハ」

 それで・・・。

 「そうそう。仕事ないかァいうてたらナ、ちょうどそこに土建の下請けやっとる社長が来て、この人吉田君とは昔なじみの真剣好きな旦那や。それでええとこ来たワいうことで紹介したんや。現場は長野で1ヵ月の約束や。ところが行くにも銭がなかったんで社長が支度金出して。ところが行ってすぐにケガで入院とかで、社長ぼやいとったなァ。

 吉田君は昔、川崎の猿橋クラブに来とったが、そのころまだ弱くて、ワシらの将棋、脇にへばりついて一日中ジイと見とった。ちょっと耳が遠いようなところもあったワ。そのうち強うなってあちこち歩くようになったにゃろ。大阪にもちょいちょい来とったなァ」

 警察の電話のあと、ひと眠りしてから、どうも気になるので入院先に電話を入れる。

 「あっ、交通事故の方ですね。先ほど亡くなられました」

 午前7時40分、死因は脳内出血。実にあっけない結末であった。

 ところが1週間ほどたったある晩に、またも電話。

 「吉田ですが・・・」

 あの新潟なまりの重い口調、一瞬本人かと思ったが、

 「私、吉田穣児の弟です。その節はいろいろと・・・。ええ私は実家の跡を継いでいます。いまはソロバン塾をしてます」

 どういうお兄さんでした。

 「兄貴は高校出てしばらくは新潟の会社で働いてました。仕事は機械梱包といって、大工みたいなものです。新潟には輸出用の機械を作る会社がいくつもありまして。そのうち東京へ出ていきました。将棋は東京へ行ってから覚えたようです。たまに帰ってくるんですが、このあたりの人じゃ相手にならないようでした。一度県の大会に出ましたが、名前が出るのが好きでないのか、優勝は人に譲っていました。家にいるときは専門家の棋譜をじっくり並べたり、疑問な点は意味が分かるまで何日も考えたりして、ちょっと変わったところのある人でした。商売には向かないですね。

 事故の現場に行ってみたんですが、ややカーブになっていて、トラックは甲府方面から来たんですがまったくブレーキ跡がないんです。運送屋のトラック二台組なんですが、先行の車に追いつこうと相当スピードを出していたようです。制限40キロですがおそらく60から70は出していたでしょうネ。兄貴は小さい頃中耳炎をやって、ちょっと耳が遠くて・・・それで気づかなかったのかなあ。それにしても、どうしてあんなところに立っていたんでしょう。服装も黒っぽかったっていうから、見にくかったんですかね」

 跡取りの弟はただ一人の兄の死に残念そう。

 ところで、穣児さんが肌身離さず持っていた棋譜ノートはどうしました。あれば見たいのですが。

 「あのノート、私らが持っていてもしょうがないのでいっしょに焼きましたけど・・・」

 無名の真剣師は、棋譜も名前も、いっさい痕跡を残せず闇に消えていった。群れず巣をつくらず借りをつくらない吉田穣児には、ふさわしい消え方だったかもしれない。

 それにしても、惑乱する頭で病院を抜け80キロの道のりを迷走し、深夜の国道に舞い上がるとき、彼は何を思ったろう。

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文中のAさんは当然のことながら安嶋正敏さん、Oさんは故・大田学さん。

吉田穣児さんがなぜ一度しか訪ねたことのない湯川さんへ電話をしたのかは謎だ。

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吉田穣児さんは、ある意味で、一般的に思い描かれる真剣師のイメージに一番近いのかもしれない。

しかし、現実の真剣師の中では変わったタイプに位置する・・・

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火曜日から今日まで、1979年、1986年、1997年、それぞれ別の時期、別の媒体に書かれた一連の出来事を時系列順に並べ直してみた。

月曜日の「郷田真隆王位(当時)・西田ひかるさん対談」を青山・原宿・渋谷系とすると、火曜から金曜までの記事は歌舞伎町の裏側の闇の中系。

将棋を背景とする物語のジャンルは本当に幅広いと思う。