芹沢博文九段、逝く(後編)

将棋ペンクラブ会報2007年春号の対談で、二上達也九段は次のように語っている。

二上 その頃は、私も稼ぎ頭の頃ですから。当時は賞金制ではないので、Aクラスにいて、九段戦、王将戦、王位戦、全部のリーグ戦に入っていて、懐がいいからついつい人に奢るというか、またそれを当てにして集まるのがいるんですね。芹沢さんなんかその最たるものでした。

会報では”芹沢さん”と記したが、実際には、”芹沢”と、愛着を込めた言い方だった。

そのような二上達也九段による、本音の追悼文。

将棋マガジン1988年2月号、二上達也九段「私の中の芹沢博文」より。

 芹沢博文とは四十年近い付き合いである。

 昨今は行き違って間遠になってしまったが、たまに酒など酌み交す。

 その酒が命取りになったわけだが、既に覚悟の上であったように思える。

 五十一歳の誕生日を終えて間もなく、平均寿命から言えば早過ぎると言える。しかしながら人生わずか五十年夢まぼろしの如し、余命を生き、老いさらばえることと、どれだけの差異があろうか。

 人のできないこと、少なくとも将棋指しの枠をはみ出した人生を歩いた男であった。

 火葬場で骨をひろったあと、係りの方が、これは座禅を組んだ仏様の形のお骨で、生前正しくそして成仏されましたの説明を遠くに聞きながら、何とも空しい思いにかられたのである。

 彼との出会いについて記憶もおぼろげになっている。

 昭和二十五年春、私が渡辺門に入り奨励会に付出し二段の頃はまだ居なかったと思う。それが共々中野の将棋会館に通った覚えがあるから間もなく彼も奨励会入りしたのだろう。

 坂上の渡辺家、坂下の高柳家、それぞれ内弟子であった。

 私の日課は早朝家中の掃除である。要領の悪いこともあって手間取ってしまう。普段の日はともかく、奨励会日にはいつも時間ぎりぎりであった。

 そんな時、彼が早目に渡辺家まで迎えに来てくれる。その声を聞くと先生の奥様は「掃除はいいから早く出掛けなさい」と声をかけてくれる。

 お陰で私は楽ができたものだった。

 お互い少年時代のささやかな思い出はともかく、早くから大人の付き合いを知り、早熟さと相まって後年の人生観を形作ったような気がする。

 例えば、私の師匠(渡辺東一名誉九段)が、「芹沢お前はなかなかはしっこいらしいけど、花札を教えてやろう」と言ったことがある。

 彼はいかにも殊勝げに、まだ花札は知らないんです宜しく、と言う。私が十八歳だったから、まだ十三、四歳である。それなのにもう麻雀荘に出入りして相当なものとの噂を師匠が聞いてのことであった。勝負の怖さを知らせようとの意図があったらしい。

 いざ始めると、いちいちこの札は何と言うのですか、これとこれが合えば取れるんですねなどと聞きながら、私の師匠の札をビシビシ取って行く。

 全く堂に入ったもので、手さばきまで初心者風にできないあたりが彼らしい。我が師も、言い出しべえと、その鮮やかさに怒るに怒れず苦笑するのみであった。

 自分の手口を自ら解説するあたり、彼の明るさであるが一面は短所になる。

 私も仲間達と何度か競輪に通った。勿論彼も一緒である。

 私の車券の買い方は、新聞の本命対抗から外した中穴予想を主に見る。車券の買い方も知らないので彼に頼む。

 或る時ひょいと私にもらしたことは、私の車券の裏を買って当てたと言う。つまり私が一と二の順に買えば彼は二・一を買う具合である。

 これまた苦笑ものだが、腹の立たぬわけがなく、それきり私は競輪を止めてしまった。

 結果的に私が深入りせずにすんだことを思えば彼が反面教師の役割りを果たしてくれたようなわけだ。

 酒と女もしかり。共に呑み明かした新宿の朝まだき、どうしたわけか女の子に追いかけられて走り回る。何も私まで一緒に逃げ回ることはなかったのだ。

 あとでその女の子のいる店に入ったところ、彼女に芹沢宛の手紙を頼まれてしまった。私の間抜け加減と彼のもてぶりをちょっぴり紹介したまで。

 あれやこれや、当意即妙の弁口と行動力は抜きん出るものがある。周囲が鈍重に見えて仕方がなかったのではあるまいか。勢い人生まで足早やに駆け過ぎてしまった気がする。

 将棋においても早々に昇進を果たしたことが、逆に災いとなった。名人、タイトル指呼の間との気負いと、甘く見たA級の座をもろくも転落した現象は、大きなギャップを生じたに違いない。

 勝ち抜くために必要な執念が彼に欠けていたようだ。将棋に対する美的感覚が、彼から執念と粘りを奪ったと言えよう。勝負師として致命的欠陥は、酒に向かわせ多方面に目を向けさせるに足る理由があった。

 将棋指しでありたいと念じながら、何か受け入れられぬもどかしさ、異和感は別の世界に走らせ、ことさら過激な言論を展開させたように思える。

(中略)

 彼と私は昭和四十年代末から五十年にかけて将棋連盟の渉外及び総務の仕事を共にした。

 人間関係の付き合いなど、彼の最も得意とするところで、不器用な私は大いに助かった。

 名人戦問題、会館建設問題、彼の行動力は精彩を放った。将棋の日制定に関しては八面六臂の活躍を示し、蔵前旧国技館に八千人のファンを集めて見せた。恐らく将棋関係の催しでは空前絶後の動員数であろう。

 初の海外タイトル戦(ハワイ)も彼なくしては成らなかったであろう。

 しかし彼の野放図なその言動は、多くの人に愛されたと同時に敵も作った。

 私はN氏M氏から芹沢を使えないようではいけないと言われた。残念なことに私の手に余ったのは確かである。頼りにならぬ兄貴分だと思ったことであろう。

 故人を美化する追悼文を書いたつもりはない。将棋界の問題児であったことに変わりはない。

 時と所を得れば天馬空行の活躍をしたであろうに、才知才能をひけらかし過ぎたため無用の摩擦を発生させてしまった。器用なようで、その実世渡りは下手だったとしか思えない。

 好意を素直に受け取れない、そのくせ甘えたがりの性癖は、やはり将棋指しのものである。

 しまったやり過ぎたかの思いは強かったであろう。とうとう自分の灯を吹き消してしまったのである。

 告別式を終えて「芹ちゃんも将棋指しとして逝ってよかった」。高柳師匠夫人の言葉に万感の想いが籠められていた。

(中略)

 明治(萩原)、大正(松下)、昭和(芹沢)三代相次いで世を去る。

 残された我等は、ひたすらあの世での冥福をお祈りするのみ。    合掌

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私が子供の頃、NHK杯将棋トーナメントの解説は、加藤治郎八段、原田泰夫八段、芹沢博文八段であることが多かった。(聞き手は倉島竹二郎さん、読み上げは蛸島彰子二段、記録が佐藤健伍四段:段位は当時)

私が初めて芹沢九段を知ったのはNHK杯をテレビで見てのことだった。

とても楽しい雰囲気を持った人だなと幼心に思った。

その後、随筆や山口瞳「血涙十番勝負」などを通して芹沢八段を更に知ることになる。

「将棋の筋が良い」と言えば芹沢九段が一番。

「アイアイゲーム」などのテレビ出演が仮に無かったとしても、普及面での功績ははかり知れないほど大きい。

多方面に才能があり、鋭角的に敏感な感性を持っていた芹沢九段。

もう少し鈍感ならば良かったのかもしれないが、それはそれで芹沢九段の魅力や個性が半減してしまうことになるのだろう。

記録には残らないが記憶に残る棋士の代表格のひとりが芹沢博文九段なのだと思う。