加藤一二三八段(当時)の予想外の返事

将棋世界1993年12月号、東公平さんの巻頭エッセイ「十二月」より。

 明治維新で幕府の保護を失った将棋の専門家(家元)は、生活に困るほどの苦難時代を迎えた。これと似たことがチェス界にも起き、混乱している。世界をリードしていた「ソ連邦」の崩壊により、多数のプロが国家の保護を失ったからである。

 昭和に入り、各新聞が競って将棋、囲碁の企画を立てたことが現在の隆盛につながるわけだが、きっかけを作ったのは月刊娯楽誌「講談倶楽部」であったそうだ。大正12年12月に創設された「全八段戦」がそれで、翌年1月、読売新聞が同じく八段戦を企画した。それまでは最高位の八段同士が対局することは稀だったから非常な人気を呼び、雑誌や新聞のメダマになり得たのだ。一流作家の菊池寛らが面白い観戦記を書いたのも、あずかって力がある。

 12月には、谷川浩司と羽生善治が若くして四段に昇っている。

 ”神武以来の天才”と呼ばれた加藤一二三が14歳7ヵ月で四段に昇ったのは昭和29年の8月。そのとき中原誠は6歳、米長邦雄は11歳でまだ奨励会にも入っておらず、むろん谷川は生まれていなかった。加藤は名人位をはじめ多数のタイトルを取り、今なおA級で活躍している。四段に昇ったときの記事を見ると「木村義雄名人の15歳の記録を破った」とある。

 いつのことだったか正確には思い出せないが関西奨励会幹事の本間爽悦八段が上京の折、「加藤は強いで、あの子に比べたら東京の奨励会はゴミばっかりや」と言ったのを忘れられない。

 その大天才も、20歳で大山康晴名人に挑戦したが1勝4敗で敗れ、升田幸三や二上達也に押されているうち」、急上昇してきた中原が先に大山を制して名人になった。翌48年、加藤は中原に挑戦したけれど、4連敗した。

 実は加藤、中原が苦手で、名人戦をふくめると1勝17敗という信じられないような結果であった。いい将棋を作っても、中盤から一分将棋で延々秒を読まれ、勝ち切れないのだ。

 第4局の観戦記を書くため解説を聞いた私は最後に、どうしてこんなにも連敗したのかと、ざっくばらんに訊ねた。返事はまったく予想外で、びっくりした。

 「いやあ、いま反省してるんですが、私は大山さんを目標にして戦って来たわけで、正直のところ、中原さんは眼中になかったのです」

 そして「今日から、中原の棋譜を研究する」とつけ加えた。すごい人だと思った。実際、その後は互角以上の対戦成績になったし、棋王戦では3-0で負かして中原の”六冠”を阻止するという見事な”お返し”をやってのけた。

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1973年に加藤一二三八段(当時)が中原シフトに方向転換をしてからの加藤一二三九段の中原誠十六世名人とのタイトル戦戦績は次の通り。

1976年十段戦 3勝4敗 ●

1977年十段戦 3勝4敗 ●

1977年棋王戦 3勝0敗 ◯

1978年王将戦 4勝1敗 ◯

1979年棋聖戦 1勝3敗 ●

1980年十段戦 4勝1敗 ◯

1982年名人戦 4勝3敗 ◯

1982年十段戦 2勝4敗 ●

棋譜を研究するとこれほど変わるものかと驚かされるが、加藤一二三九段が神武以来の天才だったからこそ実現できたことなのだと思う。

加藤一二三九段の対中原誠十六世名人の戦績は41勝67敗。

1勝17敗の後、40勝50敗だったことになる。

ちなみに、中原誠十六世名人が順位戦A級から陥落した時の対戦相手が加藤一二三九段だった。