近代将棋1991年4月号、「若手棋士インタビュー 羽生善治前竜王 天才も人の子」より。
森下卓天王就位式の前にインタビューを受けてくれた。
谷川竜王の就位式にも出席していましたが、ライバルの式によく出れますね。
「ええ、まあ・・・好きな人のは出ますね、ハッキリ。でも出たくない人のは出ませんから」
パーティーは出る方ですか。
「棋戦の担当者とふだんは会えませんでの、いい機会ですから。でもなんでも出ているわけではありません」
取材も一時は凄かったと思いますが、受ける方ですか。
「原則としては受ける方ですが、スケジュールが詰まってくると断ることもあります。
公開対局には協力的のようですが、どう考えていますか。
「あれは慣れですね。慣れればなんでもなくなる。ですから初めてタイトル戦に出た人がやっていけば、そういうものだと思ってやるでしょうね。ただ密室で慣れてきた人がいきなりやるのはちょっと無理でしょうね」
とすると、屋敷、森下など新しい人には各社ともどんどんやってもらえば、公開対局が定着してくるということですか。
ところで昨年はずい分不調が続いたイメージがあるので数字を調べてみた。
6月 0勝3敗
7月 2勝1敗
8月 3勝1敗
9月 4勝1敗
10月 1勝2敗
11月 4勝4敗
12月 5勝0敗
1月 5勝1敗
6月がちょっと悪かったようですね。
「ええ、あれは効きましたね。なにしろ一ヶ月の内に、順位戦2連敗ですから。下位ですから昇級は絶望でした。他の棋戦は勝ち上がっていくか、負けるかだけですけど、順位戦は他の人にも影響しますし、駄目な場合は一年間待たなくてはいけない」
相手はベテラン棋士二人で、羽生としてはまさか負けるとは思ってもみなかっただろう。
順位戦2連敗スタートの原因は、自分なりに分析されたと思いますけど。
「ええ、けっこう考えましたね。前の年は完璧だと思っています。竜王獲って順位戦昇級(全勝)を決めて、全日プロも優勝して。自分でも百点満点と・・・。ところがそのあと旅行に行って帰って来て・・・」
旅行の開放気分が戻らなかった?
「いや旅行自体は気分転換でいいんですが。どうも順位戦終わって気が緩んだという面があって。旅行から帰ってまた将棋を一所懸命やればいいやと思っていたんですけれど、今思えば緩みが戻らなかったんでしょう」
前期は8連勝で昇級を決めたが、そのあと二つも勝って全勝で終わった。特に最終局は凄かった。相手は森下卓で、森下が勝てば二人とも昇級。しかし羽生は全力で森下をたたき落として、昇級の夢をつぶし森下に悔し涙を味あわせたのだ。その全力使い果たした反動が大いなる気の緩みに繋がったのかもしれぬ。
それにしても、谷川も島もタイトルを獲ったあと一様に不調に陥っているが、なんだろう。羽生は竜王の直後、インタビューが10本以上殺到したというが。
「タイトルを持つと、それもこなしてその上で勝ち続けなくてはいけないんですね。今回はいい経験になりましたね。でも一回やったら二度と同じ失敗はしたくないですね」
今は”前”竜王ですけど、嫌じゃないですか。
「僕は感じないですね。今七段ですけど、段なんかも意識したことないですし」
肩書きというのは力がないほど気にするもの。力のある人、あるいはある間は気にしないものらしい。
不調から脱するにはどんなことをして気晴しするんですか。お酒飲んだりとかは?
「あ、それはないです。気晴し、なんてしても・・・。時間が経つしか、ないでしょ。時間だけですよ」
かつて大山名人に、名人のストレス解消法はと訊ねたら即座に応えた。
「ストレス解消なんてしません。そんな、ストレスなんていちいち解消しません」
すべては盤上に吐き出しているから特別ストレス解消をしようとは思わない、ということなのだろう。この時凄いな、と思ったが、二十歳という若さの羽生も似たような答えをした。
(中略)
今日の就位式の森下さんのこと、米長さんが今最強の棋士だといったのですが、どう思いますか」
「森下さんは本格派、アベレージ型の将棋だと思います。米長先生は星のことよりも内容をいったのでしょう。結果も大事なんですけど、内容を重視します。数字というのは時々ごまかされますから」
羽生さんはずっと勝率一位できましたけど、今回はちょっとダウンしましたね。(0.741、0.820、0.800、0.757、0.625)
「でも、八割というのは異常なんです。自分でも驚いていましたから。どうやってこんなに勝ったんだろうかって。今落ちてきたというより、実力どおりのアベレージに近くなってきたんです。たとえばA級にいては七割でもたいへんな数字なんですからね」
そうすると、人並みの数字に落ち着いてくると。
「ええ、(羽生は)こういうタイプなんだと、わかってくるわけでして」
先ほど森下アベレージ説が出ましたが、屋敷さんはいかがでしょう。森下さんは屋敷将棋が強いとは思えないといってましたが。
「屋敷クン、強いです。やっぱり。ただこのままスンナリとはいかないかもしれないけど」
そういう強さなんでしょう。
「いや、強さがわからないから怖い」
なるほど、忍者ですね。
「特異な感じですね。ふつうの人には、ああいう将棋はわからないでしょう」
ふつうの人の中には棋士も含みますか。
「はい。棋士も含めてわかりにくい。わかるころは大分先行ってるかもしれません。それと・・・先輩は彼のような将棋を認めたくないようなところがある。森下さんは正々堂々、真っ向勝負で、本格派ですからよくわかる。屋敷クンは策略家なんですよ」
屋敷は「いくつか浮かぶ筋の中で、奇妙な手があればそれを中心に読む」と語っていたが、ふつうの棋士は本筋を中心に読む。屋敷の将棋は”人の読まない手こそいい手”という認識がある。つまり人は必ず間違う、それならば間違いやすいような手を指そうという将棋感。これは正統派から見れば邪道だろうが、正に勝負の本質でもある。
羽生はこのことをすでに把握しているのだろう。
羽生さんは先手の勝率が相当に高いんですけど、先後は気にしますか。
「先手の時は、僕は完璧に勝ちたいですね。一手の差というのはかなり大きいですからね」
しかし、この間の棋王戦挑戦争いの大事な一番で、後手にかかわらず、対振り急戦を仕掛け話題になりましたね。
「後手で仕掛けてよくないというのが定説でしたけど、まあ、自分にもそれなりの成算がありましたので。僕は自分でやれると思ったらやる方です」
あれはそうとう研究した手ですか。たとえば研究会で試みたとか。
「いや一回も指していません」
感想戦の時にヒントを得たとか。
「感想戦でもいえないことはいいません。あの手は頭の中にはありました。いつも何かは考えてしまってあるんです」
皆さん、そうとう貯金があるんですね。
「気にし出したらキリがないんで、特に意識はしていません。でも、勉強というのは面白いもので、やらなくても力で勝てるんです。一回や二回は差がつかない。でも五年十年長い目でみると差がつく。そういうものでしょう」
うーん。読みが深い。二十歳とは思えない。
(中略)
さっき先手後手の話が出ましたが、どう違うと思っていますか。
「先手は主導権握れる。後手は神経を使いながら悪くしないようについていく。ですから直線的なのを好む人は先手番が好き。でも先後も振り駒で公平なわけですから、結局同じでしょうけど」
最後に今度戦うことになった南棋王について、どんな将棋でしょう。
「終盤です。序中盤はともかく、終盤力でねじ伏せないと勝てないでしょう」
表情で読めますか。
「いや、全然わかりませんね」
力でねじ伏せるしかない、といい切った羽生前竜王は、以前の自信をとり戻したか、目が輝いてみえた。恐らく悩んで一回り太くなった羽生将棋が、見られることだろう。
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この頃の羽生善治三冠は、1989年に竜王を獲得してから現在に至るまでの間で、唯一無冠だった時期(約3ヵ月間)。
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近代将棋のこのコーナーは湯川博士さんが担当することが多かったので、聞きづらいことも平気で聞いているこのインタビューは湯川博士さんが担当したものと思われる。
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羽生善治三冠の予言は当たることが多いが、屋敷伸之棋聖(当時)に対する、
「屋敷クン、強いです。やっぱり。ただこのままスンナリとはいかないかもしれないけど」
も、当たっている。(1990年にC級1組、B級2組昇級が2004年、B級1組昇級が2008年、A級昇級が2011年)
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「終盤力でねじ伏せないと勝てないでしょう」など、無冠の若手棋士だった頃でしか聞けない羽生善治前竜王(当時)の勇ましい言葉が、なかなか新鮮に感じられる。