今日は土曜日なので、かなり趣味に走った内容。
将棋世界1990年4月号、鈴木輝彦六段(当時)の「上達への処方箋」より。
羽生君が竜王になった。棋界最高位のタイトルに19歳で就いたのだから全く驚くほかない。
自分の19歳の頃を思い出す。東中野の三畳一間の小さな下宿、窓の下には神田川、と唄の通りの生活だった(もっとも風呂を出ても待っている人はいなかったが)。同じ頃近くに住んでいた山口英夫先生とはときどき一緒になった。
二段であまり勝てず、三段リーグには強い人がたくさんいて、四段は遠い所にある様に思っていた。
この頃、孤独を慰める勇気を与えてくれたのは人生の”格言”だった。今、格言講座を連載しているのも不思議な縁しだ。
10以上カベに貼られていて、「ノド元過ぎれば熱さ忘れる」「艱難汝を玉にす」などで、好きだったのは升田先生の「口あけて腸見せる浅蜊かな」で、多弁を戒めていた。
松浦さん(隆一五段)が遊びに来て、”こいこい”で持っていたお金をみんなもっていかれた時は、吉川英治の好きだった「苦徹成珠」(苦に徹すれば珠と成る)を見つめた。
将棋同様格言の大切さが分かる。いまだ至らないが、苦労は気にならなかった。同じく吉川先生の「ほんとに人生の苦労らしい苦労をなめたにちがいない人間は、そんな惨苦と闘ってきたように見えないほど、明るくて、温和に、そしてどこか風雨に洗われた花の淡々たる姿のように、さりげない人がらをもつに至るものである」を何とか体得したいと思っていた。
(中略)
攻め合っても勝てそうなのに手をわたす。先崎四段の「手をわたすと相手が間違えますからね」は信じられないが、確かに勇気のいる事だ。
私の19歳とくらべるのは僭越だが、(羽生竜王は)技術も試合運びも格段に差がある事が分かる。
「天才は独学である」のベートーヴェンの言葉どおり、誰かに教えられた訳ではないだろう。
棋譜ならべで疲れると、尊敬する先生と同姓の詩人の”冬の夜”の一節を読んだ。
みなさん今夜は静かです
薬罐の音がしてゐます
僕は女を想ってる
僕には女がいないのです
詩句の通り、恋人もいなければお金もなかった。「将棋が恋人です」と答える先輩もいたけれど、そこまで言い切れないでいた。切ないが、青春時代はいい思い出ばかりだ。
羽生先生の家の薬罐は鳴らないのだろうか。
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鈴木輝彦六段(当時)にとっての尊敬する先生と同姓の詩人とは、中原中也のこと。
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「神田川」は、1973年のかぐや姫の大ヒット曲。
フォークソングが大嫌いだった私も、この曲を聞いた時には悪くはない曲だなと感じた。
イメージ的には西武新宿線沿線の中野区が舞台、という雰囲気なのだが、実際には作詞の喜多条忠さんが学生時代下宿していた西早稲田というかやや目白寄りの高田馬場が舞台として想定されてるという。
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自分が19歳だった頃・・・
私の誕生日は12月なので、大学1年の12月が19歳のスタートだった。
1年から2年に上がる時に留年生を2割・3割出すのは当たり前の大学だったので、12月と1月は後期試験の勉強で結構必死だった。
勉強している深夜にテレビからいつも流れてきた曲が、浅野ゆう子「ムーンライト・タクシー」。
TBS系の「歌う天気予報」という短い番組でその頃によくかかっていた。
曲の好き嫌いを超越して、何度も何度も聞いているので覚えている。
というか、テレビをかけながら勉強していたのだから、かなりいい加減な勉強だ。
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苦手だった化学とフランス語1(B)を追試で乗り切って2年に無事進級。
大学に入ると緊張感が解けるというが、私の場合は2年になって緊張が解けた。解けるを通り越して溶け過ぎることになる。
春の暖かい日差しの中、とても印象に残った曲は高田みづえの「硝子坂」。
YouTube: 硝子坂 高田みづえ(高音質) PhotoMovie 【HD】
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大学のクラブは数学研究部というところに入っていたのだが、部長からフランス研究会出向を命じられる。元はフランス語研究会だったらしいのだが、誰もフランス語をやらずに歴代酒ばかり飲んでいたらしく、部員数はほとんどゼロ。このままでは廃部になってしまう(部室を取り上げられてしまう)ので、フランス研究会を立て直せという。
後から聞くと、フランス研究会のOBは大酒飲みの人ばかりなので、一番酒が強かった私が選ばれたらしい。
1年生の数学研究部員の中から数学をあまり好きそうには見えない二人を引っこ抜いてフランス研究会へ。
この頃、よく喫茶店で流れていたのが、ティナ・チャールズの「クッキーフェイス」。
故・夏目雅子さんが大ブレイクしたカネボウのCMの曲。
同じ頃、自然に頭に入ってきたのが、イーグルス「ホテルカリフォルニア」とアバの「ダンシング・クイーン」。この2曲はとにかく名曲だ。
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フランス研究会、何かをやらねばということで、いろいろな人に原稿を頼んで文集を作った。
フランスに関係のある文集は学園祭のある秋に、春は通俗的な雑文だらけという構成。
文集が完成した5月下旬、OB会を大学近くの寿司屋で開催した。
有名私立校数学教師をやっているOBが2人、大学で数学の研究を続けているOB、IT系企業に勤めているOBなど、個性溢れるOB8人。
その後もOBは、飲みに誘ってくれたり家庭教師先を紹介してくれたり、いろいろと可愛がってくれた。
私が更に酒飲みになってしまったという点はあるが、OBの方々には私の人格形成面でも非常に良い影響を受けたと思う。
そのこととは別に、同じ頃、ある女子大生に憧れる。
この5月下旬のことを思い出すと、自然に頭の中に流れてくるのが沢田研二「勝手にしやがれ」。
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7月初旬、憧れている女子大生との初デート。
銀座の資生堂パーラー→銀座鹿の子のコース。
彼女の夏休みの宿題を頼まれる。
「美学・・・能について」
「心理学・・・動機付けについて」
国文科の子に応用数学科の私がこのようなレポートを頼まれる不条理さは感じたが、快く引き受ける。
彼女はCharと原田真二が好きだと言った。
私は、この二人とはタイプが結構異なるので、かなり落ち込む。
YouTube: Shinji Harada / キャンディ
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8月、夏休みで仙台の実家へ。
父がギックリ腰のような症状で、仕事を休み始める。
9月、母から電話。父が入院して検査をしてみると、ガンの末期で余命3ヵ月とのこと。
父は一度も入院をしたことなどなかったので、全く信じられなかった。
この頃に流行っていた曲。
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9月、憧れている女子大生に頼まれていたレポートを自由が丘の喫茶店にて渡す。
能のレポートは、親戚の知り合いの陶芸をやっている人に「侘び・寂び」の極意を聞いてから書いたものなのでやや自信作。成績はAだったかBだったらしい。心理学のレポートは彼女が書き直したとのこと。
父の見舞いで何度か仙台に戻る。手術をしても回復はしないので、手術はなしとのこと。
季節は秋。
作家の新井満さんが電通新潟支局時代に作った名曲、「ワインカラーのときめき」。
資生堂秋のキャンペーンソングだった。
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10月、父の容態は段々と悪くなっている。私は東京で生活をしているからまだいいが、看病をしている母と姉は精神的にも肉体的にも大変だ。
ちなみに姉は、たまたまこの時期に離婚をして実家に戻っていた。(翌年の8月にはまた結婚をすることになるが)
10月下旬、フランス研究会のフランスに関わる文集を発行、OB会も開催。
私が書いたのは「ラ・フォンテーヌ物語とイソップ物語と伊曽保物語の比較」。
同じ題材(アリとキリギリスなど)を、それぞれの物語はどのような結末としているか、というようなこと。
11月、父の意識がなくなる。憧れの女子大生の子とはあまりうまくいっているようにも思えない。仙台には2~3週間に一度くらいのペースで戻っていたと思う。
気持ちが沈む一方、大学の授業には集中できていた。
太田裕美「九月の雨」。この頃の自分の気持ちを表わすような曲調。
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12月、何を食べても満腹感が得られなくなってきた。驚くほど大食いになった。点滴だけで意識のない父の代わりになって食べているのかもしれないと思った。
12月中旬一度仙台へ戻って、また東京へ。
父は、私が冬休みで戻るのを待つかのように、クリスマスの翌々日に亡くなる。私の大食いも収まった。
一緒に飲む人に心の負担をかけてはいけないと思い、父の容態のことは亡くなるまで誰にも話さないでいた。
12月初旬、私の19歳も終わろうとしている頃、プランス研究会のOBと四谷のスナックで飲んでいる時に有線放送から流れてきた音楽。この曲もとても印象に残っている。
YouTube: 山口百恵 赤い絆(レッド・センセーション)
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こう考えると、いろいろなことがあった19歳だったんだな、と思う。