月刊宝石2001年の何月号か、湯川恵子さんの「将棋・ワンダーランド」より。
将棋の棋士がチェスも強いのは当たり前のようだが、指す人は少ない。私が知っているのは羽生善治四冠と佐藤康光九段、森内俊之八段の三人だ。
羽生&森内はかなり凝って海外遠征もしている。
今年の夏、森内さんはフランスのアボアンヌ村のチェス大会に出た。3回めだ。緑の葡萄畑と黄色い向日葵畑に囲まれたのどかな村が、年に一度9日間のチェス大会を盛り上げている。近隣国からも有名強豪が参加し毎年300人以上集まる。
森内さんは6ラウンド戦って4勝1敗1引き分け。ブリッツ(短時間の切れ負け戦)では日本人初の決勝トーナメント進出だった。さすが強~いっ。
当人はそれどころではない。本戦5日めの負けにひどくショックを受けた。終盤1手の見損じで好局を落としたらしい。早々に会場から消えた。
宿舎の庭の遠くのほうで、どでーんと寝転んでいた。
女子高の寄宿舎を選手に貸してくれている。何棟もの建物がおもちゃに見えるほど、広大な野原に整然と巨木が茂っている庭だ。遠くにポツンと見えた黒い陰がずっと動かない。仲間もみな声かけるのを憚った。
若いのに普段はとても朗らかで腰の低い人だ。写楽の役者絵のようなヒョウキンな顔していつもヒョコヒョコ、お辞儀しながら歩いてる風情なのですよ。
翌朝、
「あ~、もう消化試合になってしまいました。僕の夏は終わりましたよ。あ~」
この日勝って翌日帰国した。我々は最終日まで参加したが、森内さんは日本に大事な用事があった。順位戦2回戦、7月31日に東京将棋会館で行われた。 図は加藤一二三九段が仕掛けた局面。6五同歩と取ると角交換から6六歩(同金は飛車金両取りの角打ち)が厳しい。
実戦は▲5六金! なんと敵の飛車筋へ金が飛び出した。
以下△5四歩▲5五歩……結果は『森内力強く2連勝』(週刊将棋)ーー。
数年前、フランスの羽生みたいな天才プレーヤー、ローチェさんが来日し大使館で三面指し指導をしたことがある。相手は羽生、佐藤、森内。
後日ローチェさんに会ったので三人について感想を聞いた。
羽生=「閃きがある」。
佐藤=「読みが丁寧」。
森内=「……長いっ」。
と言ってなぜかローチェさん笑った。
長考? 顎が長い?
きっと棋士寿命が長いタイプだと私は思う。
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この年のアボアンヌ村で開かれたチェス大会には、朝霞チェスクラブのメンバーが複数遠征しており、森内俊之八段(当時)、湯川博士さん、湯川恵子さんもそのメンバーだった。
朝から夜までチェス漬け。
昼食時に美味しいワインがたくさん出てくるので、「もっと飲みたい」という誘惑とも戦う必要があったという。
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”若いのに普段はとても朗らかで腰の低い人だ。写楽の役者絵のようなヒョウキンな顔していつもヒョコヒョコ、お辞儀しながら歩いてる風情なのですよ”は、湯川恵子さんならではの見事な表現。
森内名人の姿が目に浮かぶようだ。