将棋世界1991年11月号、国語学者の大野晋さんのエッセイ「読み将棋」より。
読売新聞の文化部の小田尚英さんが取材に見えた。雑談していると、目ざとく部屋の隅の将棋盤を見て、「将棋をなさるんですか」という。
「ほとんど指さない、読み将棋です」
といいながらその駒箱のふたを取り、袋から出してお見せすると、駒の「菱湖書」「久徳作」という銘を読んで「仲々いいものですね」とのことだった。
実はそれは私が古稀に達したとき、学習院の国文科の卒業生諸君が、お祝いの会をしてくれて、記念品として下さったもの。盤に駒を並べると、一つ一つがぴたりと盤に吸いつくようで、すわりがいい。一手すすめるごとに心が落ち着くような感じがする。
国文科の学生には間宮厚司君という将棋部のキャプテンがいて、五段だとか。また国文科には二上名保子さんという学生がいた。二上達也九段のお嬢さんで、ゼミ旅行によく皆で出かけたものだった。「羽生さんという若いお弟子は、とても強くて将来有望だという話です」というようなことを以前、彼女から聞いたこともあった。
間宮君とは旅先などで指したが、六枚落ちで、指し分けくらいの成績だった。こうした間宮君や二上嬢の口添えだったのだろうと思われるが、祝賀の席上、私は盤や駒と一緒に、驚いたことに連盟の初段のお免状を頂いた。昔、私の親父が「そらで指せれば初段」といっていたので、私に「初段」とは重荷で、気恥ずかしい気があいている。
ところが、ちょっとしたことがあった。
何年か前になるが、年の暮れに福島テレビから新春番組に加わらないかというおさそいをうけた。谷川名人も出演するという。それなら何かお話もできるかなと思われて、私はそれを引きうけた。
だいたいテレビというものは、本番は短くても、待ちの時間が結構長々しいものである。私は谷川名人と初めて言葉をかわすことができた。
私は谷川さんの署名の入ったお免状をいただいたんですというと谷川さんは
「それは、棋道に精進・・・という言葉が入ってますか」ということだった。たしかそういう言葉はあったようでと、お答えすると、「それは実力が認められたのです」とのお話。私はほとんど実際には指さないこと。しかしインドに一年滞在していたとき、出版社が送ってくれた「米長の将棋」という本を何冊か読んだこと。きびきびしていて勘どころが鋭く解説してあって面白かったこと。
そんなお話をした。すると谷川さんは、「私も読みました。あれはいい本ですね」といわれた。私は次第に安心して、島-羽生の竜王戦のことを口に出した。
「羽生さんが、途中で5六にいた銀を6七に引いたのが、仲々いい手だと解説されていましたが、ああいう手は指しにくいものなのですか」とか「8三に香を打ったけれど、後になると8四の方がよかったといわれていますが、ああいうことは後では分かっても、前からは仲々読めないものなんでしょうね」などと、うろ覚えの棋譜をたよりにあれこれ言った。すると、谷川さんは少し考えていて、「初段を差し上げたのは失礼だったかな」といわれた。
そんなことを小田さんに話しているうちに私は昔のことを思い出した。
子供のころ銭湯に行くと、着物の脱ぎ場に丸いテーブルがあり、扇風機が置いてあった。
その脇に、その日の読売新聞が置いてある。私は銭湯に行くたびに、将棋欄を見て、「北斗星」という署名の観戦記を必ず読んだ。将棋の中身が分かるはずもなかったのだが、北斗星氏の文章に何か楽しみを感じていた。金子金五郎八段とか、土居八段の垂れ歩とかいう単語を今も思い出す。
「僕はね、十月、十一月、十二月の三箇月だけ読売をとるんですよ、竜王戦の決勝を見たいから」と言ったら、小田さんは、にこっと笑った。
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故・大野晋さん(1919年-2008年)は、国語学者で学習院大学名誉教授。
日本語の起源の問題に取り組み、多くの著書が残されている。
1994年、「係り結びの研究」で読売文学賞受賞。
1999年に出版された「日本語練習帳」は190万部を超えるベストセラーとなり、井上靖文化賞を受賞している。
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中村修九段の奥様は元・福島テレビアナウンサー。1992年の挙式なので、大野晋さんと谷川浩司名人(当時)が出演した頃は、奥様は現役だったということになる。
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大野晋さんは、観る・読む将棋ファンの先駆けだったと言えるだろう。
谷川浩司名人(当時)との会話が楽しい。
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私の大学時代の恩師が還暦の時、お祝いをしようということになった。
還暦お祝い実行委員長は私より7年ほど上の先輩で、私も委員。
お祝いの品を何にするかの話になった時、私は、先生は囲碁が大好きなので碁盤がいいのではと提案した。
「おっ、それいいね」
ということで即採用。
私にとって、将棋をやっていたことが役立った事例の一つだ。
実際には碁石と碁盤が贈られ、還暦パーティーには100人以上の研究室卒業生・現役が参加した。
先生はとても喜んでいた。
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