郷田真隆四段(当時)「ミスをしない完璧な人間になりたいとは少しも思わない」

将棋世界1991年3月号、郷田真隆四段(当時)の「待ったが許されるならば・・・」より。

 僕は、文章を書くのが嫌いな方ではないが、生まれてこのかたエッセイなんて書いたことがない。

 だから、今思うことを正直に書こうと思う。

 僕は将棋が好きである。

 僕の体に、自然に将棋が入り込んできてから10数年、僕は将棋と一緒に歩いて来た。プロの道を志し、つらいこと、苦しいこともたくさんあったが、でもやっぱり僕は将棋が好きだ。

 将棋の良さ、素晴らしさを知る一人の人間だから、そしてその素晴らしさをたくさんの人々に伝えたいと思う。知ってほしいと思う。

 野球は筋書きのないドラマだと言われる。これまで、数えきれないほどそのドラマを見てきた。野球だけじゃなく、あらゆるスポーツは全て、そのドラマを持っている。

 僕の好きなF1で、昨年の日本GPにおいて、日本の鈴木亜久里選手が、日本人として初めて3位、表彰台に上がった。

 観衆は拍手と歓声で迎え、亜久里選手は手を振り、ガッツポーズで応えた。

 僕はそのシーンを、亜久里選手の輝いた目を、たぶん一生忘れないと思う。僕は泣き虫だから、少し涙が出た。

 そういう素晴らしいシーンを見たとき、僕は先ず、誰かにその”思い”を伝えたいと思う。そのことについて話がしたいと思う。そして、自分の持つちっぽけな悩みがどこかへふっ飛んでしまう。元気が湧いてくる。

 僕にとっては、一種の清涼剤なのかもしれない。

 人は、何かに一生懸命なとき、とてもいい顔をしている。いい目をしている(少なくとも僕にはそういう風に見える)。そこにドラマは生まれる。一人一人が一生懸命なとき初めて、人の心を動かすことができる。

 観衆が固唾を呑んで見つめる。選手の一挙一投足に、歓声が、どよめきが起こる。何千人、何万人という人々の心が一つになる。これ大変なことである。凄いことである。素晴らしいことである。

 その感動を呼ぶ力が、我が”将棋”に、盤上9×9、40枚の駒に、地味だけれど確かに、確かにそこにある。

 世界中の将棋ファンの人々が、タイトル戦の一手一手に驚き、どよめきが起こり、歓声が湧くようになったら、どんなに素晴らしいだろう。難しいことじゃないと思う。そして一日も早くそういう日が来ることを、将棋を愛する人間として心から願う。

 どうも僕は文章を書くと、こういう風にかたい話になってしまう。先崎君にはよく「おまえは純情だからな」と言われる。彼のように、おもしろおかしく書けると良いのだけど・・・。

 それはさておき、僕はよく忘れ物をする人なので、途中で「あ、しまった」なんてことはしょっちゅうである。たまに冷や汗をかいたりすることがあるが、最近では馴れてしまって、まあなんとかなるさ、と図々しくなってしまった。

 ところが、昨年の5月、冷や汗どころの騒ぎではないことが起こった。僕は、第48期名人戦の第3局の記録係として、宮城県の松島センチュリーホテルに居た。初めてのタイトル戦の記録係だったので、注意して用意万端、さああとは対局者を待つだけという開始30分前、僕はあることに気が付いた。

 なんと、ストップウォッチがないではないか。ストップウォッチがなければ対局は始められない。ということは、開始時間が遅れるのか・・・。名人戦史上こんなことはあっただろうか?(ある訳がない)そんなことが一瞬のうちに頭を駆け巡る。ああ、どうしよう・・・。

 仕方がないので、担当の方に事情を説明したが、この時ばかりは冷や汗どころの騒ぎではなかった。ただ、あんまり驚いたので、僕は自分でも不思議なほど平静だった。

 結局、かわりのストップウォッチが見付かり、ことなきを得たが、中原、谷川両先生をはじめ、関係者の方々には大変ご迷惑をかけてしまった。誌上を借りてお詫び申し上げます。

 そんなわけで、ミスをして迷惑をかけたり、恥をかいたりすることの多い僕だが、ミスをしない完璧な人間になりたいとは少しも思わない。

 ミスをするからこそ人間なのだ。そして人は、そのミスを糧に成長することができる。このこと、とても大切なことだと思う。

 さて、次のリレーエッセイは、奨励会時代から大変お世話になっている滝先生(誠一郎六段)にお願いしようと思う。

 とても愉快な先生のこと、楽しい話を聞かせて頂けると期待しています。

—–

19歳の頃の郷田真隆四段(当時)のエッセイ、透明感溢れ、清々しく、かっこいい。

松島で行われた名人戦での失敗談も、ハードボイルド小説の一節のように思えるほどだ。

私はラブレターは書いたことがないが、このような雰囲気の文体でラブレターを書けば、必殺必中になるのかもしれない。