里見香奈二段が、昨日行われた奨励会の対局の1局目で勝って直近の成績を12勝3敗とし、三段への昇段を決めた。
→里見香奈奨励会員、女性として史上初の奨励会三段に!(日本将棋連盟)
→将棋の里見香奈さん 女性初の三段に(NHK)
歴史的な快挙であるとともに、NHKの記事の谷川浩司会長の談話にもあるように、奨励会は三段に昇段してようやく山の五合目。
また、四段になったとしても、そこがゴールではなく、新たなスタート地点。
里見香奈三段は女流棋士でもあることで、男性奨励会員とはまた違う苦労も多くあったろうし、これからも続くことだろうと思うが、ぜひ、女性初の四段昇段を実現してほしい。
来年4月から始まる三段リーグ、およびそれ以降の三段リーグへの注目が、今まで以上に大きくなることは確実だ。
—–
今日は、志半ばで奨励会を退会した二人の女流棋士の物語。
将棋世界1992年8月号、中井広恵女流名人・女流王位(当時)の第3期女流王位戦〔中井広恵女流王位-林葉直子女流五段〕第3局自戦記「彼女との日々」より。
少し前、「PHP」という雑誌に、彼女は私の事を書いた。それは、”気楽につきあえる人”という特集で、巻頭には「最大のライバル」と記されてあった。
―いつも生活を縣けて争っている最大のライバルが、いつも間にか、私にとって一番気楽につきあえる友になっていたのである。
(中略)
二人の間には、気にならない気が漂っていて、二人をやさしくホンワカ包んでくれる。そんな状態にあるとき、二人は気楽なのだ―
こうも書いてあった。
―彼女がどうして私の一番気楽につきあえる人間となったのか・・・?私にもわからない―
確かに、公式戦だけで47局も指していれば、彼女は私にとって、最大の好敵手に違いない。あなたにとって、一番気楽につきあえる人は誰か?と聞かれれば、やはり私も彼女の名前を挙げるだろう。
「どうしてライバルなのに仲がいいんですか?」
こんな愚問を投げかけてくる人も多い。どうしてか・・・なんて考えながらつきあう人はいないはず。ただ、一緒にいると楽しいから―それだけなのだ。
彼女の背中
新聞の切り抜き記事が、彼女との初めての出会いだった。それには、アマ女流名人戦で12歳の女の子が優勝した―と載っていた。
私は瞬間「そんなに強い女の子がいるのか・・・」と思った。と、同時に彼女と将棋を指してみたいと感じた。
彼女は内弟子の修行をし、プロ棋士になるため、奨励会に入った。女流棋界では、瞬く間にタイトルを手にした。
私は彼女の辿った道を真似るように歩いた。彼女は常に私の前を行った。
彼女と初めて女流王将戦で対局した年、五者プレーオフという異例の結果となり、パラマス式決定戦を行った。順位の関係え、彼女と私が一番下のブロックで当たった。
彼女はその年、女流王将の座に就いた。私はB級に逆戻りだった。
悔しかった。彼女に負けた事よりも、B級に降ちた事よりも、彼女に先を越された事が悔しかった。
彼女の奨励会
初めてのタイトル戦で、私は意気昂然としていた。自信がないわけではなかったし、前年の悔しさをぶつけるつもりだった。
あの頃は対局中に彼女と目が遭っても視線を曖昧に逸らしていた。お互いに旨く気持ちをカムフラージュ出来なかったし、相手を意識しすぎていた。
今ならニコッと愛想笑いの一つも出来る。
第2局の博多での対局が丁度、奨励会とかち合っていたため、当時奨励会員だった彼女は、例外で関西奨励会に出席する事になった。私は師匠の反対を押し切って博多からの帰りに彼女と共に大阪へ立ち寄った。
絶対に奨励会に入ってプロ棋士を目指すと決意していた私は、奨励会がどのような雰囲気の中で行われているのか、また彼女が男性相手にどう戦っているかを知りたかった。
そこにいる彼女は、私が知ってるのとは全く違う別人のようだった。”男の人が苦手”と言っていたように、感想戦でもか細い声で、普段女の子同士でお喋りしている姿からは想像もつかない。
確かに、奨励会は男ばかりの集団で、幼い私にはちょっと異様な雰囲気がした。
「私も入会したら、ちゃんとやっていけるだろうか・・・」。不安にかられた。
奨励会が終わり、彼女と東京までの帰途についた。新幹線での彼女は、あの明るい笑顔を見せてくれた。私は何となくホッとした。
結局、私の初挑戦は1勝2敗に終わった。あれから女流王将戦では5度も彼女に挑んだのだが、未だに縁がない。
私の奨励会
私が奨励会に入ると、すれ違うように彼女は退会していた。いろんな中傷に傷つき、哀しそうだった。私はそんな噂話に憤りを感じた。
彼女が奨励会を辞めて、今度は私が一人ぼっちになってしまった。人の気持ちはその立場になってみないとわからないというが、その通りだった。
寂しかった。その上、8級まで降級してしまい、辛くて辞めたくなった。でも辞めるに辞められなかった。8級のままでは・・・・・・。
兄弟子だった主人に相談し、研究会に入れてもらった。最初は負けてばかりだったが、そのうち一局、二局と入るようになった。
それが自信に繋がったのか、奨励会でも勝てるようになった。友達も出来たし、幹事の先生も優しかった。
私は一層将棋が好きになった。
別々の生き方
以前から小説を書きたいと言っていた彼女は、若い女の子向きの本を出した。これが大当たりし、作家としての自分を見つけた。
お互い歩く道が違ってきた。
私は人生のパートナーを見つけた。20歳で結婚し、今年女の子を授かった。将棋盤を離れると、全く別の生き方だ。
松田聖子のCMではないが、甲斐甲斐しく家族の世話をしているのが幸福か、バリバリ仕事をするのが幸福かはわからないが、どちらにしても将棋指しは、勝った時が一番嬉しいようだ。
以前にも増して二人が仲良くなったのは、第1期の女流王位戦で彼女と対局してからだった。
ふとした事がきっかけで、毎日のように電話しあうようになった。一時は主人といる時間よりも彼女といる時間の方が多かった程だ。
二人共、大人になったせいか、割り切ったつきあいが出来るようになったからだろう。
それに最近の彼女はメチャ明るくなった。男の人が苦手だった筈が、今では自分から積極的に話しかけている。本人は
―A型だと思ってたら、B型だったので、性格も変わったのョ!―
と言っているが、充実した生活を送っているからだろう。
昔から綺麗だったが、最近の彼女は生き生きしていて、とても魅力的だ。
―奨励会にいた時も、今ぐらいのずうずうしさがあれば、後輩つかまえて”あなた、一局教えなさいよ”ぐらい言えたのにね―
と、彼女は笑って言う。
苦しい胸中
今まで持ってたタイトルを手離す時ほど、切なくなる事はない。彼女は「恋人にフラれた」とインタビューに答えていたが、確かにそんな感情かも知れない。他の人の手に渡ってしまうのかと思うと、嫉妬さえ覚える。
まして、10年もの日々を「女流王将」という肩書きをつけて生活してきたのだから、彼女の胸中は窺い知る事が出来る。
だから、余計彼女には挑戦者になってほしくなかった。無冠は彼女にとって屈辱だと思うし、タイトル奪取に燃えている筈だ。
彼女は、原稿に追われ忙しい中でも、相手を見つけ、将棋を指してもらっている。それもかなり以前からである。なのに、林葉は実戦不足だと書かれ、
―私が将棋を指してないって、どうして言えるの?―
彼女は訴えるように言っていた。
研究してるかどうかなんて、他人ではわからない筈。連盟に顔を出していれば勉強しているという事にはならないと私も思う。
これからのこと
私は、自分が負けたのを何かの所為にされるのが嫌だ。”体の調子が悪かったから・・・”などと書かれると、自分が負けた事以上に腹が立つ。
だから、子供が出来たから負けたと言われたくなかった。そのためにも、勝たなければならないと思った。
子供は親を見て育つという。私が一生懸命やっているところを子供に見てほしい。子供が物心つくまでタイトルを持ち続けていたい。
***
今、自分がいる立場に満足してしまったら、そこで終わりになる。いつまでも向上心を持ち続ければこそ、人は成長できるのではないだろうか―。
—–
心打たれる文章だ。
この対局は、中井広恵女流王位(当時)が3勝0敗で防衛を決めた時のもの。
自戦記には、図面が投了図を含め8図あり、2図から7図までにそれぞれ3行ほどの解説がつけられ、それ以外は上記の本文という構成。
自戦記として、画期的な形態の一つだと思う。
—–
林葉直子さんは、ずっとA型と思っていたら1990年後半か1991年前半にB型であることが判明。
将棋界でもう一つ事例があるとすると、故・米長邦雄永世棋聖。
A型と思っていたものが、実はAB型だったという。
大人になってから、子供の頃に判定された血液型が実は違っていたとなった場合、精神面でどのようなインパクトがあるのだろう。
林葉さんの場合は、意外と大きかったのかもしれない。