森下卓八段(当時)「今までの名人は、他の棋士にダメージを与え、強くさせないようにして自分の地位を守ってきたが、羽生さんは彼が出てきたことによって、周りの棋士まで強くなったような気がします」

近代将棋1995年7月号、青野照市九段の「実戦青野塾 木村義雄の再来」より。

将棋マガジン1995年7月号より、撮影は弦巻勝さん。

 今期名人戦の第2局は、新聞の観戦記が前年名人戦で敗れた米長邦雄前名人という、非常にユニークな企画で、かつ内容も面白いものであった。

 その文中に、羽生善治名人は木村義雄十四世名人の再来というくだりがある。これは氏一流のほめ言葉と見るむきもあるが、考えてみると確かに羽生は、大山康晴~中原誠~谷川浩司と続いてきた、第一人者達の雰囲気とは明らかに違っている。

 木村名人は、将棋を、そして将棋界の地位を、単なる遊びの世界から文化的な世界へと高めた棋士として、後輩にも尊敬する人は多い。当時も無論、ライバルはいたものの、その強さ、人気、政治力は他の棋士とは比較にならなかった。

1960年11月3日、紫綬褒章を受章した時。榎本健一さんとの記念撮影。近代将棋1973年1月号より。

 自ら団体の会長を務め、相撲の本場所ともなれば、2マス持っている枡席に従者を連れて颯爽と現れるなど、世間に対するアピールもほとんど一人でしていたようなものだったらしい。

 もっとも、地位、金、名誉を、木村名人を筆頭とする東京側がほとんど持っていったために、それに反発する大阪方が、何とか名人の箱根越えを実現したいということからライバル意識を燃やし、それが大山、升田の逸材を生んだのであった。

昭和13,4年頃。父親の鎌吉さんと一緒に枡席で相撲見物。近代将棋1973年1月号より。

 しかし、次代の、大山十五世名人以降は、自分のやりたいことを我慢することが、第一人者のと努めであり、またそうすることが第一人者の地位を守ることだという風潮が続いていた。いつの時代にも、政治的や経営的に向いていたり、世間に将棋をアピールするのが得意な棋士もいたが、それらの方は第1位になることができず、逆に多才なためにそれが災いしているなどと言われたものである。

 ところが羽生は、それらの名人とは違い、テレビのコマーシャルには出る、対談やラジオ等の依頼があれば可能な限り引き受けるし、なおかつ将棋連盟の普及事業には自ら進んで出た上で、将棋もしっかり勝っている。

 その効果はどうかと言うと、今までは将棋を知らなかった、お茶の間の主婦や子供にまで、羽生-将棋-公文?といったように、その存在を知らしめることとなった。

 大山時代は中原に、そして谷川へと移行していった時も、世間は大いに湧いた。しかしそれは将棋ファン、つまり男の世界での人気であって、羽生のように主婦や若い女性まで注目させるものではなかった。

 羽生の出現によって、今までは歌手やスポーツ選手の専売特許と思われた「追っかけ」なる女性まで見られるようになった。

 タイトル戦で羽生が地方へ行く。すると駅のホームには、必ずと言ってよい程、羽生をひと目見たいというファンが待っている。何時に来るかは、本人や新聞社サイドは絶対に教える訳がないから、見当をつけて、あるいは何時間でも待っているのだろう。

 もっともこれらの女性は、まだ本人にひと目会えるからまだわかる。不思議なのは、本人の出てこない大盤解説会を、将棋を知らないのに何時間でも見ている女性ファンがいることである。

 女性だけでなく、将棋というのを広くアピールしたという意味では、木村名人の再来かどうかは別にして、木村タイプの名人であることは確かである。将棋界が、これだけのチャンスをみすみす見過ごす手はないと思う。

「今までの名人は、他の棋士にダメージを与え、強くさせないようにして自分の地位を守ってきたが、羽生さんは彼が出てきたことによって、周りの棋士まで強くなったような気がします」

というのは、森下卓八段である。

 確かに大山流の指し方などは、誰にも真似ができない指し方で、孤高を守った感があった。その後の中原自然流や谷川光速流も、見る人を感動させたりはしたが、人が真似をするとかえってひどいことになりやすく、時の第一人者の影響で、周りの棋士が強くなったという話は聞いたことがない。

 ところが羽生は別だと言うのである。そこを考えてみたい。

 まず序盤作戦である。昔からプロでも、居飛車と振り飛車がまったく同じ力で指しこなせれば、後手番の時の作戦にも困らないことはわかっていた。

 たとえば後手を持って、▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩と角道を止め、相手が▲4八銀なら、△4二銀から矢倉に組むし、▲2五歩△3三角と形を決めてくれれば、向かい飛車にしてしまうという手法である。向かい飛車でなくとも、振り飛車も得意なら、どこへ振っても困ることはない。

 しかし実際には、居飛車と振り飛車のどちらも指せても、深い読みを必要とする居飛車系の将棋と、感性と粘着力を必要とする振り飛車系の将棋の両方を、同時に得意にする人はほとんどいなかった。

 つまり野球で言えば、左右どちらでも同じ力で打て、相手が左打者なら右、右投手なら左の打席で打てるスイッチヒッターなら、鬼に金棒とは言っても、そういう打者は存在しないのと同じことであった。

 ところが羽生は、棋界初の本格的スイッチヒッターとして出現したのである。彼以降だろうか。先手番は矢倉で、後手番なら振り飛車という、器用な作戦が採れる若手棋士も出てくるようになった。

 今、居飛車と振り飛車という分類をしたが、本当は立ち技的将棋と、寝技的将棋というように分類するのが正しいのではないかと思う。従って居飛車党であっても、たとえば対振り飛車に対して、▲5七銀左からの急戦と、居飛車穴熊を平均して両方指しこなせる、たとえば佐藤康光七段のようなタイプも、ある意味ではスイッチヒッターと言える。

(中略)

 ここ10年位の間に、序盤作戦だけでなく終盤戦の技術も向上してきたように思う。これは何も羽生だけの功績とは思えないが、終盤で悪くなった時の粘り方や、いったん良くしてからの突き放し方に、羽生は独特のものを持っている。

 彼の終盤の特筆すべき点は、悪くなっても最後まで、突き放されずにピッタリ後について行けるところである。従って優勢な方も、勝ちになるまでに神経も疲れ、時間も使い切ってしまうことになり、そこに逆転の要素がある。

(以下略)

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「木村名人は、将棋を、そして将棋界の地位を、単なる遊びの世界から文化的な世界へと高めた棋士として、後輩にも尊敬する人は多い」

私が子供の頃、親とは関係なく将棋を好きになりはじめた頃、母が「将棋には、木村名人と大山名人という偉い人がいる」と教えてくれた。

母は将棋を全く知らなかったにもかかわらず、一般の主婦がその名前を知っていたわけで、木村義雄十四世名人の名前がいかに日本中に浸透していたかがわかる。

棋士の社会的な地位向上に木村十四世名人が果たした役割は非常に大きかった。

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「大山時代は中原に、そして谷川へと移行していった時も、世間は大いに湧いた。しかしそれは将棋ファン、つまり男の世界での人気であって、羽生のように主婦や若い女性まで注目させるものではなかった」

1995年~1996年の羽生善治六冠・七冠フィーバーは、それまでの将棋のイメージを大きく変えた。

それまでは、将棋は、特に女性からは「明るくない」「年寄りっぽい趣味」のようなイメージで捉えられていたと言っても間違いではない世界だった。

37年前の悲劇

また、新聞の観戦記に登場する棋士という存在は知っていても、棋士は将棋は余技で、別に持っている本業で生計を立てていると思っている人もそれまでは少なくなかった。

羽生六冠の活躍により、このような世の中の雰囲気が変わった。

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「今までの名人は、他の棋士にダメージを与え、強くさせないようにして自分の地位を守ってきたが、羽生さんは彼が出てきたことによって、周りの棋士まで強くなったような気がします」

羽生六冠がいたことにより、羽生世代の棋士同士の切磋琢磨に結びつき、羽生世代棋士が盤石の時代を築くことになる。

それとは別に、羽生六冠の将棋が他の棋士の技術をも引き上げているのではないかということ。

この森下卓八段(当時)の視点は非常に斬新で、なおかつ説得力がある。

この時の名人戦の挑戦者である森下八段の言葉だから、より一層重みを感じる。