中原誠名人「郷田君は考えさせたらうるさいからね」

将棋世界1992年7月号、鈴木輝彦七段(当時)の「対局室25時 東京」より。

 特別対局室は中原-郷田戦の一局。棋聖戦の準決勝だった。阿部五段が決勝に進出していて今月中には挑戦者が決まる事になっている。

 見たのは1図だったが、「やっぱり桂を使わないとね」と言って、▲3七桂と指した。

 名人戦の2局目の後は3局目も含めて3連勝で機嫌は良さそうだった。

 名人の知り合いから送られてきたお菓子を頂きながら雑談を少ししていたが、「郷田君に悪いから」と記者室に向かった。

 「考えさせたらうるさいからね」と一言付け加えた。

 「桂を使わせたらうるさい」は本人の事で、「◯◯がうるさい」は将棋の特徴を言っているようだ。

 驚いた事に▲3七桂の後、本当に郷田君は50分の長考に入った。

 「うるさい」と言われたら一流の証明で、実力を認められた事になるようだ。ただし、「ボヤかせたらうるさい」等の、そのまま受け取っていいのか判らないものもある。

 記者室には羽生君もいて鈴木宏彦さんと土佐-村山戦を研究していた。

(中略)

 ニコニコしながら(勝ち抜き戦で勝って賞金を得ることになった)森下君が入ってきた。「これでまた税金が払えるね」と私が言うとニッコリうなずいた。

 国民の三大義務の一つ「納税の義務」を権利とまで考えている男で「こんなに頂いていいのですか」と税務署の人に言わせる程だ。

 税金を払える事は幸せな事だそうで、「収入があるから払えるんです」と言っている。正に”マルサの男”で、1時間もレクチャーを受けていると、私も払いたくなってくるから不思議だ。

 「予定納税は大変でしょう」と訊くと「お待ちしていました」と嬉しそうに言ったから筋金入りである。

 10図では残り時間が2時間46分対33分の大差だったが郷田君は間違えない。

 11図は残り2分になっていたが、郷田君の勝ちに見えた。▲7四飛は△6七金で必至だし、▲4四桂や▲2五桂は△7七角成がピッタリになっている。

1992 (4)

 名人も35分考えたが、いい手が見つからなくて▲7四飛とした。以下、△5七金▲7八金△8五角(12図)の詰めろ飛車取りで勝負がついた。

1992_2 (4)

 感想戦では10図のあたりが研究されていたが、11図では先手に勝ち筋があったのだ。

 次の一手として出題しても正解は出ないかもしれない。それ程指しにくい一手である。「桂使いの名手」がウッカリした事でもその意外性が判る。

 正解は▲5四桂(A図)。

1992_3 (4)

 こう指されていたら残り2分の郷田君は大いに慌てた事だろう。△7七角成には▲3一銀以下絵に描いたように詰む。△5七歩も▲7五歩で受けに困る。

 残るは△1二玉の早逃げだが、▲1四歩がピッタリになるようだ。

 ▲4四桂や▲4三桂(同金で困る)は読み易いが、空中にポンと打つ▲5四桂は盲点になっている。

 名人が四段に4連敗は不名誉な記録なのかもしれないが、素直に郷田君の健闘を称えるべきだろう。四段が強いのではなくてあくまで郷田君が強いのだから。

 待っていた森下君と中原名人の3人で原宿に食事に出た。

 「頭を冷やすのにちょうどいいから」と名人が言うので歩いていった。10分と言っていたが、実際には20分かかった。以前行った時も対局の後で、時間の感覚が違っていたのだろう。

 「明日から羽生君たちとオーストラリアのパースに行ってきます」と森下君は言った。対局で忙しいが、いい息抜きになるだろう。盤上を離れればいい友でもある。

 翌日のニュースを見ていたら、円が130円に3円程急上昇していた。行く当日にこんな事があるとはつくづく運の良さを感じたが、多額納税者に対する神の配慮かもしれないと思い直した。

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「◯◯させたらうるさい」、通常は、「彼はワインのことを語らせたらうるさい」、「彼女に西洋家具のことを語らせるとうるさい」などのように、ある分野の事象に一家言持っているというニュアンスで使われる。

しかし、将棋の場合の「◯◯させたらうるさい」は、◯◯させると本当にこちらが困ってしまうような厄介なことが起きる、の意味になる。

「中原名人に桂馬を使わせたらうるさい」

「大野源一九段に飛車を使わせるとうるさい」

などのような使われ方をしていた。

鈴木輝彦七段(当時)が書いているように、将棋界で「◯◯させるとうるさい」は最大級の褒め言葉になるようだ。

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後半に登場してくる森下卓七段(当時)は、そういう意味では”一家言”の方で「納税を語らせるとうるさい」パターンだ。

郷田真隆九段は、一昨年の将棋世界でのインタビューで自らが話していた通り、「スポーツのことを語らせるとうるさい」タイプ。

石田和雄九段は「家庭菜園のことを語らせるとうるさい」

佐藤康光九段は「ゴルフのパットのことを語らせるとうるさい」

ということになるのだろう。