将棋世界1992年11月号、郷田真隆王位(当時)の自戦記「一生懸命戦った十番勝負」より。
棋聖戦第4局
箱根「花月園」にて。
第1局以来のがっちりした矢倉から、谷川先生の先攻で迎えた5図。
5図から6分で指した△6四歩が大悪手。
△6四歩に▲4六歩と突かれて将棋は終わった。
全くどうかしているとしか思えない。
5図では△5五歩の一手で、それならば難しい将棋だった。
以下も粘りを欠き、ひどい将棋となってしまった。
終局後のインタビューにも言葉が出ない。ひどい将棋を指してしまったということ以外、言うべき言葉がなかった。
四冠王対四段。負けても仕方ないじゃないかと、私はどこかで自分の逃げ道を作っていたのだ。
負けるのは仕方がない。しかし、城のまわりをおびえながらうろうろして負けてはいけない。
負けるときは相手の懐に飛び込んでいって負けなければいけない。
逃げることからは何も生まれはしない。
自分が最も嫌うことをしてしまった自分に腹が立ち、少し情けない気分だった。
翌日、マイクロバスで箱根を降りるとき、「いつからそんな小さな人間になった」ともう一人の自分が言った。
棋聖挑戦失敗。
王位戦第2局
函館「竹葉新葉亭」にて。
以前に先崎君と中村さんと私とで函館に1週間ほど滞在したことがある。
今回の対局場の「竹葉新葉亭」はそのとき滞在していたところから目と鼻の先の純和風旅館で、函館の街の空気と匂いがなんとなく好きな私は、気分良く対局に臨むことができた。
後手番の谷川先生が四間飛車でこられた。
これも長いシリーズの間に一局はあると思っていた(何故なら棋聖戦第1局は私が飛車を振ろうと思っていたぐらいだから)。
私は急戦で進め、迎えた6図。
棋聖戦第4局で手が伸びなかったので、ガンガン行くつもりで指したが、無理筋であった。
研究してなかった訳ではないが、すぐに悪くなった。
やはり研究と実戦は違う。
終盤、谷川先生らしくない寄せで逆転。
この1勝は大きかった。
(中略)
王位戦第6局
神奈川、鶴巻温泉「陣屋」にて。
第4局、5局と連敗して3勝2敗で迎えた第6局。
3連勝からの2連敗で、将棋界初の3連勝4連敗という記録が自分では意識していないつもりでも、意識の中に入ってくる。
6月から始まったタイトル戦での緊張感、棋士になってから初めて感じる重圧の中で、自分がどう戦えばよいのかよく分からなかった。
なるようにしかならないという気持ちで9月8日の1日目を迎えた。
私の先手だったので、作戦は矢倉と決めておいた。
1日目、作戦負けと思ったので、考えても仕方がないので、夜はぐっすり眠ってしまった。
それが良かったのだろう。2日目は重圧とかプレッシャーはあまり感じずに対局することができた。
10図。谷川先生が投了された。
王位を奪ったという喜びよりも、一局の将棋と、12番勝負が終わったのだな、という気持ちだった。
6月から3ヵ月にわたって、谷川将棋とその人となりを肌で感じたことは、これからの私にとって大きな財産になると思う。
この3ヵ月間、たくさんの方に本当にお世話になった。
様々な形で私に接して下さった皆様に、心からお礼申し上げます。
ありがとうございました。
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「負けるのは仕方がない。しかし、城のまわりをおびえながらうろうろして負けてはいけない。負けるときは相手の懐に飛び込んでいって負けなければいけない。逃げることからは何も生まれはしない。自分が最も嫌うことをしてしまった自分に腹が立ち、少し情けない気分だった」
は名言と言っても良いだろう。
郷田真隆四段(当時)は、この棋聖戦第4局での敗戦をバネとして王位戦で結果を出す。
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原田泰夫九段は郷田真隆王位(当時)を”星の王子”と命名した。
将棋世界1992年11月号の表紙には、
”星の王子”出現!!
郷田真隆、新王位に
と載っている。
そういう意味では、郷田真隆九段が将棋史上初めて「王子」と呼ばれた棋士ということになる。
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将棋世界を見ると、翌年からは”王子”ではなく”プリンス”と呼ぶようになっている。
たしかに、「将棋界のプリンス」といえばわかりやすいが、「将棋界の王子」だと不思議な雰囲気になってくるので、とても微妙だ。