将棋世界1993年9月号、東公平さんの巻頭エッセイ「甲子園球場に35,000の大観衆」より。
米長邦雄名人の就位式に千八百余人が詰めかけた。パーティーの出席者としては空前の記録だし、さすがは色男。美女、元美女をふくめて女性の多いのにはほんと、たまげた。
一堂に会する競技会の出席者数では東京の武道館で行われる職域団体対抗戦がすごくて、三千人を超える。では、公開対局の観衆の日本最高記録をご存知だろうか。
これは、調べてみるまでもない。ケタ違いの大記録が終戦直後の昭和23年10月24日に樹立されているのだ。
三万五千人。
野球やサッカーじゃあるまいし、将棋でそんな人数を集めるなんて、夢物語じゃないかとお疑いの向きもあろうけれど、ちゃんとした記事が残っている。主催は山之内製薬、協賛が新大阪新聞。甲子園球場のグラウンドに白線を引いて大将棋盤を特設し、駒になったのは東宝舞踊劇団の女子ダンサー(当時の言葉で舞姫)が40人。でっかい駒を旗差物のように捧げ持ち、飛車や角行になった美女は電気自動車で移動したというのだからスケールがでかい。
対局者は当時のA級、松田辰雄八段と大山康晴八段で、早指しの公式戦として行われた。棋譜は新聞のほか、関西で発行されていた「将棋」という雑誌―これは三号でつぶれたが―に掲載された。むろん「大山康晴全集」にも収録されている。九十五手で松田が勝った。
しかしまあ、いくら娯楽の少ない時代といえども将棋だけで三万五千人は集まらない。そこで客寄せに呼ばれたのがブルースの女王、若き日の淡谷のり子だった。何曲歌ったか、までは記録に残っていないけれど、この故智にならって人気者の協力を仰げば、平成の今でも東京ドームを満員にする公開対局は可能じゃないだろうか。スポンサーを探して「駒音コンサート」を二十倍くらいのスケールにひろげてしまうのである。
(以下略)
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この大イベントをプロデュースしたのが新大阪新聞の故・小谷正一(1912-1992 )さんと思われる。
当時は既存新聞の増紙よりも新興新聞に用紙が割り当てられた時期で、毎日新聞社が自社のダミーとして新大阪新聞社を設立し、『毎日新聞』夕刊発行の代わりに創刊をした。
小谷正一さんは毎日新聞事業部から新大阪新聞に移り、数多くのイベントや事業を手がけることになる。
ポナペ島から復員したばかりの”打倒木村”に燃える升田幸三七段(当時)と木村義雄名人を戦わせる「木村義雄名人-升田幸三七段五番勝負」を企画したのもそのうちの一つ。
ここで大きな評判を取った後、小谷正一さんは宇和島の闘牛を西宮球場で開催するイベントを行っている。
東公平さんが書いている甲子園の公開対局は、この西宮球場の闘牛と同じビジネスモデルであり、記録としては明記されていないが、甲子園の公開対局も小谷正一さんがプロデュースしたものと考えて間違いはないだろう。
ちなみに、西宮球場での闘牛イベントを題材に小谷正一さんを主人公のモデルとして書かれたのが、井上靖さんの芥川賞受賞作「闘牛」。
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小谷正一さんはその後、毎日新聞に戻り、「毎日オリオンズ(現在のロッテマリーンズ)」、「新日本放送(現在の毎日放送)」の創設を手がける。
そして、1958年には”広告の鬼”と呼ばれた電通の吉田秀雄社長(当時)から強く請われ、電通に入社、ラジオテレビ局長を務めることになる。
そして、吉田社長が1963年に亡くなると、1966年から個人事務所(デスクK)を開いてフリーに。
電通時代は東京オリンピックの広報プロデューサー、デスクKでは大阪万博の住友童話館のプロデュース、筑波科学博の広報委員長を担当している。
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小谷正一さんの電通時代のエピソード。
海外の著名なパントマイマーが来日した際、部下をパントマイマーの奥さんにアテンドし、買い物するときに何を買って何を買わなかったか、どこで迷ってどっちを買ってどっちを買わなかったかを全部報告させた。
そして、奥さんが帰国する時に、迷って買わなかったほうの商品を全部箱に詰めてプレゼントしたという。
最も簡単なのは、奥さんの買い物をリアルタイムで全部交際費で負担すること。
しかし、それでは品がなさすぎるし、あまりにも無粋だ。
稀代のプロデューサーならではの、このような人の心を揺さぶるような演出が素晴らしい。
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