心の故郷忘じ難く

倉島竹二郎さんの「昭和将棋風雲録」より。

 塚田正夫名人対大山康晴八段の第7期名人位決定戦は「名人の箱根越え」のキャッチフレーズで世間の人気をよんだし新聞や雑誌も東西の宿命的対決として鳴り物入りで提灯を持った。

(中略)

 いよいよ対決がはじまったが、第1局は接戦の末大山八段に凱歌が挙がった。中一日おいて第2局が行われたが、緒戦を失った精神的打撃は争われず、塚田名人はいつになく固くなっている様子で、私たち素人眼には勢いに乗った大山八段にたえず押され気味に見受けられた。

 古奈ホテルは山添いにあったが最初は山下の広間が対局室にあてられた。が、そこは出入りが多くて少し騒がしく、第2局は対局者の希望で、不便ではあるが山上に建てられた八畳と六畳ふた間の山荘でやることにした。

 その山荘からは、うららかな春の陽差しをあびた伊豆の山々や、ところどころ菜種の花の黄色い段段畑等が眺められ、いかにものどかな景色であった。が対局室の空気は朝からピリピリするほど緊張していて、眼下ののどかな風景とはおよそ似ても似つかぬものであった。その日は、招待された梅原龍三郎画伯が早朝から顔を見せておられた。最初は対局風景をスケッチするつもりであったらしいが、緊迫した空気に少しでも対局者の気の散ることを懸念してであろう、スケッチブックと鉛筆は横に押しやって一心に観戦されていた。梅原画伯は画壇随一の愛棋家だった。

 その第2局のとき、つぎのような興味深い挿話があった。

 緒戦のときもそうであったが、世紀の一戦とあって遠くからはるばるやってくる観戦希望者が多く、それを断るのにひと苦労したものだが、第2局の日の夕方、また思いがけぬ人物が土居さんを訪ねてやってきた。

 それは伊豆地方切っての大親分といわれる某氏であった。その親分は子分を一人連れ、それに手土産の菓子折と果物籠を持たせて、山の下にある控え室に姿を現した。私はちょうど土居さんの形勢判断をきこうと山を下りてきたところだったが、親分はロイド眼鏡をかけた45、6の、ぶあつい体つきをしたいかにも貫禄のありそうな男だった。

 親分は丹前風の着物に薄鼠色の春外套をひっかけていたが、親分が外套を脱ごうとすると、間髪を入れず子分がこれをてつだって受け取る。子分は開襟シャツに半ズボンの軽装をした青年であったが、その外套を受け取るしぐさがまるでいただくようにうやうやしく、私はもの珍しい感じを受けた。ところで、私達を驚かせたのは、子分が外套を受け取ったはずみにガチャッと激しい音がして、縁側になにかが落ちたことだった。思わず目をやると、それは折りたたみで五寸近くもある海軍ナイフであった。が、親分は見向きもしなかったし、子分も少しも慌てずそれを外套の内ポケットにしまい、そのまま縁側の片隅にキチンと膝をそろえてひかえた。そうした社会のことはぜんぜん知らない私は、親分の幾分ふくれあがった懐のあたりを眺めながらあの中に拳銃を入れているのかも知れないぞ―となんとなく不気味でもあり、好奇心にかられた。

 が、会って話してみると、別段変なところはなく、ざっくばらんで気さくな人間のようであった。

 親分の話によると、青年のころ棋士を志し、故溝呂木七段(追贈八段)の門に入って何年か修業をしたが、わけあって途中からヤクザに転向したのだそうで、将棋は三段位指せる自信があるとのことだった。本人がそういったばかりでなく、古い顔馴染だという土居さんが「大きな真剣勝負なら、玄人の四段でもこの人には勝てないよ」と、あいづちを打った。

 しばらくそうした雑談をしながら、親分は少しのあいだでよいから名人戦をみせてほしいときりだした。相手が相手だけに、うるさ型の上田五段や樋口金信氏も黙っていたが、土居さんは「ちょっと位なら、かまわんじゃろ」と、取りなし顔でいった。

 で、私は対局室に戻りしなに親分を連れてゆくことにしたが、山を登る途中「大分将棋も進んでいるから、なるべく静かに見て下さい」と注意を与えた。と、親分は「心配しなさんな。これでも将棋指しになりそこなった人間なんだから」と笑いながら、ポンと私の肩を叩いた。

 対局室にはいると、親分は観戦席とは反対側にまわって、静かに盤の方に膝をにじり寄せていった。私はヒヤヒヤしたが、すでに将棋は終盤戦、大山八段の猛攻を塚田名人が必死になって凌ごうとしている最中で、対局者の眼中には観戦者のことなどはてんで映らない様子であった。

 親分は盤と半畳ほど離れたところでピタリと正座し、30分近く微動もせずに凝視をつづけた。が、やがてまた膝をずらせて後退し、対局室から姿を消した。私も同時にソッと抜け出した。

 二人は暗い急な坂道を前後しておりたが、私はどうも塚田名人の方がいけないような気がしてならなかった。

「形勢はどうですかね?」私は途中で声をかけたが、親分はそれに答えず、

「将棋指しも、あれほどになればたいしたものだなあ、天下を背負って指している」

 と感慨深そうに呟いた。暗くてむろんわからなかったが、私にはなんとなく親分が涙ぐんでいるような気がした。

 控え室では、土居さんが上田五段を相手に山上の将棋を研究していたが、私たちの顔を見るとすぐ、

「あれからどう指した?」

 ときいた。私はみてきた数手を教えた。と、土居さんは、

「ふーん、どうも塚田君の方がいかんようじゃ。最初に角を成りこませたのがやはり作戦負けだったんだな」

 と首をひねった。

「そうですな。こう攻め立てられては、塚田はんも受けきることは容易じゃおまへんぜ」

 上田五段が顔を輝かしながら駒を動かした。

 親分はしばし黙って土居さんと上田五段の研究手を見ていたが「いや」と、急に口をはさんだ。

「その変化はどうかな?先生がたの前だが将棋はもっと深く広いもんだ。そんなに簡単にいけなくなるような手を、命を張った勝負で塚田名人が指すはずがない」

「しかし、君は―」

 土居さんがさすがにムッとして開き直ろうとしたとたん、親分はスッと立ち上がった。

「おじゃまをしました。結着のつくのを見て帰りたいが、今夜はこれからちょっとした出入りがあるので、これで失礼させてもらいます」

 親分は軽く頭を下げると、縁側に出た。縁側の片隅に先程と同じ姿勢でひかえている子分が、すぐ立ち上がって外套をきせかけた。

「あの将棋は、塚田名人の勝ち」

 親分はすてゼリフを残すと、そのまま子分を従えて悠然と去った。

 土居さんと上田五段はあっけにとられて、しばらく研究の手をとめているほどだったが、私は外套の内ポケットにしまわれてある海軍ナイフを思い浮かべ、出入りということばを命のやり取りと勝手に決めてしまって、親分は命のやり取りをやる前に、心の故郷忘じ難く、見おさめのつもりで名人戦を観戦にきたのに違いない―と、小説風に空想したりした。

 不思議なことに、その勝負は親分の予想がピタリと的中した。大山八段の猛攻を塚田名人が首尾よく凌いで、双方入玉となったのだが、規定の駒数が不足のため大山八段の判定負けとなったのであった。

——–

第7期の名人位決定戦なので、昭和23年(1948年)の今頃の季節のこと。

土居市太郎八段(当時。後に名誉名人)は61歳とはいえ、順位戦A級4位だった。

若い頃に棋士を目指していたこの親分は、相当な実力と感覚を維持していたと考えられる。

親分が「心配しなさんな。これでも将棋指しになりそこなった人間なんだから」と笑いながら倉島竹二郎さんの肩を叩いた辺りで、(いけない、いけない)と思いながらも、この親分のファンになってしまう方も多いのではないだろうか。当然のことながら、私がそうだ。

違った道を歩み、異なる世界にいようとも、忘れられない心の故郷。

倉島竹二郎さんも、この親分に対して思い入れを持って書いているのだろう。文章の中の親分がとても魅力的な登場人物となっている。

親分のその後の消息が気にかかるところだ。

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日本の侠客の元祖は、歌舞伎や講談で取り上げられている幡随院長兵衛(1622年-1657年)だと言われている。

侠客とヤクザと暴力団の厳密な違いは定義されていたりしなかったりするが、考えようによっては戦国時代以前の武士団も大きなヤクザ組織のようなものと見ることもできる。

平家や源氏は朝廷・貴族の用心棒から勢力を拡大、北条家は源組の若頭から組長に、足利家は後醍醐天皇から委託を受けた武闘派集団、地方の豪族は地場のヤクザ。

朝廷などから委託を受けている合法的な組織か、そうではない非合法的な組織かで武士とヤクザを分類している文献もあるが、そもそも江戸時代の幡随院長兵衛までヤクザ組織という概念がなかったわけで、戦国時代までの人々は、そのような区別さえしていなかったことになる。

合法的なビジネスを収入源としているか非合法的なビジネスを収入源としているかで武士とヤクザを分類しているケースもあるが、年貢や税金自体がそもそもみかじめ料のようなもので、また戦前のヤクザの収入源は土木・荷役などの労働や芸能・相撲などの大衆娯楽を取り仕切ることから得ていたので、現代でいえば人材斡旋業・人材派遣業・興行師・芸能プロダクション。博打は江戸時代から非合法とされていたが、これらは合法の業務だ。(もちろん、現在の労働基準法や派遣法などの基準には甚だしく違反しているが)

戦後になってから、ヤクザが暴力団となり、的屋を除き、収入源も非合法のものがほとんどとなったが、武士団と戦前のヤクザ組織の共通点は意外と多いと思うのだ。

 

 

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