村山聖七段(当時)の東京への引っ越し

将棋世界1994年12月号、神吉宏充五段(当時)の「対局室25時 in 関西将棋会館」より。

 ほんまに関西棋士は個性派揃い。ここで書けんかったことでもオモロイことは山ほどある。棋士室に顔を出せば、いつでも誰かが漫才をやっている。

 村山も強烈な個性の持ち主で、関西を代表する”顔”の一人。その彼が最近「ボク、東京に行こうと思っているんです」と言っている。聞けば「A級に上がれなかったら」の条件付きだそうだが、どうも雰囲気は上がっても上がれなかっても東京に行きそうである。理由を聞いても「いやちょっと」と小さく会釈をするだけである。

 私の読みでは、たぶん村山は東京に行って自分の将棋を磨くつもりだと思うのだが…。たしかに有望な若手や人材も多く、研究会も活発で将棋を勉強する土壌としては最適だろう。

 しかし、これまでに自分の慣れ親しんだ「水」が変わるのは大きな賭けであるように思えるのだが、どんなもんだろうか?

 私もテレビが増えたときは、東京に住もうかとちょっと考えたこともあった。が、まずネックになったのは会話と食事。関西弁は大好きやし、こってりソースのお好み焼きもたまらん美味しさ。この二つの文化があまりに違うことからやめにしたいきさつがある。

 果たしてこの村山の賭けは吉と出ますかどうか…。出来たら関西に残ってな、な、村山先生頼むでー。

(以下略)

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村山聖七段(当時)は、神吉宏充五段(当時)が予感した通り、この期にA級昇級を決め、東京へ引っ越しをしている。

引っ越しの際には師匠の森信雄六段(当時)と奥様、森一門の面々が手伝いをしており、森七段のブログにはその時の思い出が書かれている。

息子の引っ越し準備 5,14(森信雄の日々あれこれ日記)

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神吉五段がこの原稿を書いた頃の村山七段の順位戦(B級1組)での戦績は4勝2敗で12人中5位。

上がれそうでもあるし上がるのが難しそうでもあるし、という微妙なタイミングでの、村山七段の「A級に上がれなかったら」の条件付き引っ越し宣言。

たしかに、早い段階から、上がれても上がれなくても村山七段は東京へ引っ越すことを決めていたのだと思う。

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「◯◯しようかどうしようか」と考えている時、私の場合になると思うのだが、深層心理では既に「◯◯する」ことを決めていることが多い。

このブログを始めるきっかけは、2008年にバトルロイヤル風間さんと飲んだ時の会話だった。

私「風間さんのブログ、面白いですよね。この間も笑っちゃいました」

バトルさん「森さんもブログ始めてみちゃいなよ」

私「ヴぇー、ブログなんてとんでもない」

その日は酔っ払って家に帰ってすぐに寝てしまったのだが、翌日。

「ブログねえ、ブログをやるのも大変そうだし、でもブログをやってみるのも未知の世界で面白そうだし、でもなあ」と思いながら、ネットで「各社ブログサービス比較」のようなページを調べて「この中からもし選ぶとしたらOCNがいいかな」という具合にブログに突入することに……。

私の深層心理の中では、バトルさんと飲んだ翌朝には「ブログをやってみよう」というものが出来上がっていたのだと思う。

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「◯◯しようかどうしようか」と考えている時に深層心理では既に「◯◯する」ことを決めているケースの典型例は、「もう一軒飲みに行こうかどうしようか」。

当然のことながら、もう一軒行くつもりになっているのに、「もう一軒飲みに行こうかどうしようか」と自分の中で自分に問いかける手続き。

昔の話になるが、酔っ払って地下鉄に乗っていて、「あ、次の駅は六本木だ。今日はあの店に寄ってみようかなどうしようかな。よし、コインで決めよう。ポケットの中から100円玉を取り出して表が出たら行く、裏が出たら行かないにしよう」

100円硬貨は裏だった。

「あれ、変だな。もう1回」

表が出るまでやり続けて、六本木駅で降りたことが何回あったことか……