羽生善治名人が初めて名人となった5日後の話。
将棋世界1994年8月号、天野竜太郎さんの「編集部日記」より。
6月12日午前10時、新名人の実家へ弦巻カメラマンとうかがった。JRの西八王子駅から車で15分ほど。日曜日ということもあるのだろう。本当に静かである。
お母さんが出迎えてくれた。お父さんは、ドイツへ出張中でまだ顔を合わせていないそうだ。
話の途中で写真を撮らせてもらう。子供の頃、遊んだ公園が、すぐ近くあるのだが、しばらくぶりだそうで随分変わりましたね、と驚いていた。10代の頃の部屋を見せていただいたが、将棋の本は当然として分厚い歴史の本がずらりと並んでいたのには驚いた。
「天野君は歴史の変わりめに立ち会っているんだよ」との弦巻さんの言葉を聞きながら帰路に着いた。
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将棋世界同じ号の天野竜太郎さんの「編集後記」より。
「この辺は、10年以上も前から変わっていないんですよ」
新名人の実家は、延々と続くかに思われる住宅街の一角。後ろは、陣馬山で「閑静」という言葉がピタリと当てはまる所でした。
色々とお話を伺った帰りに「実家はやはりくつろぎますか」と聞くと、「お風呂の水を入れないで済むのが助かります」。
23歳の青年の普段の顔を見た気がしました。
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陣馬山は、八王子市と相模原市との境界にある標高857mの山。人気のあるハイキングコースであるという。
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ブランコに最後に乗ったのはいつのことだったろう。
きっと小学校低学年の頃が最後だったと思う。
ブランコもすべり台も通っている小学校の校庭にあった。
そういえば、校庭には鉄棒もあった。
体育の成績が5段階評価でいつも3だった私にとって、体育の授業での鉄棒はとても憂鬱だった。
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通っていた高校の校庭には鉄棒はなかった。
中学校の校庭に鉄棒があったのかどうかが思い出せない。
なんと言っても中学の斜向かいが旧式の火葬場だったので、その強烈なインパクトが、校庭の細かな設備の記憶を吹き飛ばしてしまっているようだ。
風向きによっては火葬場から流れてくる煙が教室を直撃することもあった。
入学してから2,3日間は火葬場がとても陰惨な場所に見えて仕方がなかったが、1週間もすると気にならなくなってきた。
「人間、何でも慣れることができるものなんだ」ということを中学1年にして学んだ私だが、キュウリや生のトマトや里芋や山芋など、いまだに食べられないものも多く、その経験が全く生きていないことがわかる。