「振袖を 将棋頭に むごいこと」

近代将棋1988年2月号、故・山川次彦八段の「将棋川柳と田辺聖子さん」より。

 私と将棋川柳のおつきあいは長い。初段になりたての満20歳の頃、「本能寺、はしの歩をつくひまはなし」を読んで、なるほどなあ、と感心したのが初めである。

 それから、ちょっと川柳をかじったが、三段で満州将棋大成会への出向。現地召集で沖縄へ飛ばされ、保護兵(実は落伍兵)の太平洋大戦争となって、すべては中断。

 それが復活したのは、昭和21年に復員してから延々30年後。日中象棋(シャンチー)協会(会長大山康晴十五世名人)へ入って、永田久副会長(法政大学教授)とお知り合いになってからである。

 永田先生は数学の教授で「将棋の変化手数は凄い数字になる。兆では数え切れないし、その上に京(けい)でもダメ。その上の垓(がい)でどうにか、計算できそうです」などと貴重な話をうかがった。

 また永田先生は象棋(中国将棋)ばかりではなく、日本の将棋、とくに将棋の川柳に関しては、オーソリティである。

 私も愛読しているが、週刊将棋に連載されている将棋川柳は永田先生の博学を示す好読物だ。

「路地のかぎ、かりて逆馬(さかうま)さしている」 逆馬とは入玉のこと。入玉になると時間がかかる。見物の大家からかぎを借りて、夜更けまで頑張る風景は江戸時代の平和を感じさせる。

 また「お廻りを気をつけてやれと、角行を成り」 江戸の自身番ののどかな風景。角を成って形勢はよし、交代で夜番に出て行くお廻りに声をかけている。

 その将棋川柳博士でも、わからない川柳が出てきた。

「振袖に 将棋頭(がしら)のむごいこと」の句である。私の質問に、さすがの永田先生も、難しいですね、とお手上げ。

 昔から、将棋倒しなどと、将棋に関する言葉はあまりいい表現には使われない。将棋倒しは”人雪崩”とでもいい変えてもらいたい。

 そこで将棋頭がなぜむごいのか、大きな疑問を抱いて、悶々としていたが、いい本にめぐり合った。田辺聖子さんの「川柳でんでん太鼓」である。

「うどんやの、ばばあ、くじらのはなしする」 初めはなんのことやらわからなかったが、田辺さんは「行徳のうどんや」の添え書きが発見されて江戸時代、行徳(千葉県)に鯨が打ち上げられ、大きな話題になった、と書いている。

 私は「これだ」と思って、田辺さんに手紙を出した。待つこと約半ヶ月、待望の返事をいただいた。

 前略、『お手紙には、”振袖に、将棋頭のむごいこと”とありました。私も調べましたがわからず、研究者の山澤英雄先生をわずらわし、ご教示頂きました。

 この句はどこからお引きになったか、わかりませんが、”てにをは”がちがっているそうです。

「振袖を、将棋頭に、むごいこと」が正しいよし。これは”川傍柳”四巻にあり、作者は卜文、天明2年4月15日とあるそうです。

 その頃、若い娘が死ぬと、かたみの振袖をお寺に納めて、天蓋や幡にしました。この句の振袖も、お寺の天蓋になって、むごいことだというらしいです。

 将棋頭は、天蓋の異称のこと。日本国語大辞典でしらべますと、やはり天蓋は将棋の駒の頭のような形をしているところから「将棋がしら」というと、あります。私も江戸時代、娘の死んだかたみがお寺に寄付され、天蓋や幡になるというのは知っていましたが、天蓋を将棋頭と呼ぶとは知りませんでした。

 山澤先生も「勉強しました」とおっしゃっていました。いろいろ面白いことでございます。おかげさまで、私も山澤先生と共に、勉強させて頂きました。ありがとう存じます。

 ご想像の通り、不吉なものでございました。きっと、江戸時代の娘はうら若い身で労咳などを病み、親御さんの涙を絞らせて、先立つことが多かったのでしょう』

 とても丁重なお手紙で、人間は偉くなればなるほど”実るほど頭のたれる稲穂かな”であると思って、田辺さんに感謝した。

 しかも、この後の文がとてもいい結びの言葉だった。

『お元気でお過ごし下さいませ。なお、私の主人は将棋好きですが、私は知りませんので、甚だ残念で、人生でソンをした気がしています。これからボチ、ボチ、おぼえるつもりです』

 なんと、やさしい立派な女性だろう。こういう人が将棋ファンになてくれれば、それだけで棋界が明るくなる。

 さっそく、田辺さんと将棋好きのご主人のために「大山将棋勝局集」(講談社文庫)と斎藤栄さんの名著「王将殺人」(集英社文庫)を送った。王将殺人は推理小説だが、私としては初めての”解説”を書いている。

 冒頭にくじらの句を出したので、終わりにもくじらで行こう。

「ウシ食った 口でクジラを可愛がり」

 鯨にうるさい西洋人に、あんたら牛食うているやないか、と日本人は反発したい。数のわかっている牛や豚をどうか食べてくれ。何頭いるか、正確にはわからない鯨は捕ってくれるな、というのである。とても難しい問題であるが、日本民族と鯨の長い歴史を考えると、民族感情が先に立って、反発したくなる。

 田辺さん、どうもありがとう存じました。これからも将棋を愛して下さい。

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故・山川次彦八段は、将棋世界の初代編集長を務め、観戦記、単行本の執筆など、文筆でも活躍した。観戦記者としてのペンネームは香取桂太。

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天明2年は1782年。徳川家治が将軍で田沼意次が老中の頃。

「振袖を 将棋頭に むごいこと」

「むごい」という言葉を日常使うことは意外と少ないので、その悲しさはより一層強く感じられる。

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江戸時代は、質屋の看板が将棋の駒の形をしていたと言われる。

歩、香、桂、銀は敵陣に入ると駒がひっくり返って金になるので、それに引っ掛けて、質屋に持ち込むと品物が金に変わる、という意味。

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将棋世界1995年2月号、大崎善生編集長の編集後記より。

 今から2年前ぐらいのことだったと思う。山川次彦八段が編集部へ随分と久しぶりに現れ「山川上等兵、ただ今生きて戻りました」と事務所中に響き渡るような声で叫んだ。目には涙があふれていた。

 重い病気にかかれら、内臓がなくなっちゃったよ、という程に手術に次ぐ手術を繰り返し、そして体は元気な頃の半分ぐらいにやせ細っていた。

「やっぱり、ここだよ。大崎君、編集部にくると、生きて帰ってきたなあって、感じがするよ」と私につぶやいた。

 それから、先生は編集部には顔を出さなくなったが、ことあるごとに葉書や手紙を下さった。

 その一つを紹介する。

 4月号拝見しました。とてもよかったと思います。とくに鈴木君のがいい。◯印は有馬さん、私は大山邸の(麻雀、囲碁、将棋大会)の司会者でした。もう昔のことですが。そして真部君、実に人間性あふれる文章と拝見。バトルさん、将棋をこの世界以外の人に誤りなく伝えてくれる。以上。

 春近し、風邪など引かぬよう願います。

               老人より。

 将棋世界の合本を見ると何十冊みても何百冊みても、編集後記のところには山川の名がある。初代編集長として本誌の礎を築き、苦しい時代を乗りこえてこられた。そして亡くなられるその時まで、編集者としての視線を失うことなく、ことあるごとに我々後輩を励まして下さった。優しい先輩でした。