平成元年1月8日、大山康晴十五世名人-村山聖五段戦

将棋世界1989年3月号、中平邦彦さんの大山最強振飛車に10代パワーが挑戦・第3弾〔村山聖五段-大山康晴十五世名人〕、「村山、会心の指し回し」より。

 大阪の連盟本部の玄関を入ったら、ベンチの所に森信雄五段がいた。

 「冴えんなあ」というのが口癖のユニークな人柄で、例の奇怪で愉快な次の一手「スーパートリック109」の著者である。

 関西には北村秀、角田、大野、灘といった実に個性豊かな人たちがいた。関西ののびやかな風土と自由な雰囲気が生んだ現象だが、最近はみんな紳士になり、おとなしくなった。

 その意味で森五段や、神吉、有森といったユニークな棋士たちの存在は救いだ。森の弟子の村山も、師匠に劣らず個性豊かだ。

 ツメを2センチも伸ばす。黙ったいたら半年も風呂に入らない。狭い部屋に漫画が山積みされて座る所がない生活とか、いろいろ話題をまいたものだ。

 初めて東京の連盟の対局に行ったとき、新宿へ漫画本を買いに行ったら家出少年と思われ、新興宗教の勧誘員に2時間も付け回された。それから連盟の千駄ヶ谷へ行こうとしたが、世田谷へ行ってしまったらしい。

 そんな村山君を見ようと、東京の連盟では10数人が対局室に立ち現れた。羽生君が大阪へ来てもこうは騒がれず、個性の豊かさでは村山君の方が一枚も二枚も上だ。そして二上九段と西村八段をしっかり負かして帰ってきた。

 ただユニークだというだけならこうは有名にならない。村山君が騒がれたのは、東の羽生と並ぶ西の逸材と言われる才能を認められていたからだ。

 早見えの、からい将棋。とくに終盤は抜群との定評があり、対局中の将棋の終盤がむずかしいと「村山君に聞け」とよく言われた。また奨励会時代からそう言われていた。あの難関のC2組を、一期で抜けたのも実力の証明である。

 だが、惜しむらくは病弱なこと、腎臓に持病があり、連戦になると体力が続かない。棋戦の多い今、すべてに全力を尽くすのは無理というもので、ときに不戦敗も出てしまう。

 「将棋年鑑」の棋士アンケート欄で、村山君は年間目標を「生き延びること」と書く。胸が痛くなる言葉で、冗談と思えないところがつらい。もっとも、去年印象に残ったことを「INF(中距離核戦力)条約」などと書くところなんぞ、やはりユニークだ。

 森五段と雑談をしていたら、その村山君が玄関を入ってきた。扇子を背広の右ポケットに差して、ひょこひょこ身体を揺すって歩いてくる。

 森五段がすかさず「大丈夫か?」と心配そうに聞く。優しい師匠だ。「ええ、まあ」と村山、そのまま対局室へ。

大山最強振飛車に10代パワーが挑戦
第3局
平成元年1月8日 於 関西将棋会館
(持ち時間各90分)
▲五段 村山聖
△15世名人 大山康晴

▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲4八銀△3二飛

(中略)

 対局日を平成元年と書いた。

 昭和から平成へ。日本中が揺れた天皇崩御直後の対局である。平成になって初めて活字になる対局がこれだろう。

 対局前の雑談はやはり天皇の話になる。大山はNHKラジオで「私と昭和」と題して、75分も話すという。考えてみれば、大山は昭和そのものを生きてきた。歴史をみんな見てきた。昭和将棋史を語る最高の人だ。

 こんな話があったそうだ。天皇が熊本のホテルに泊まられたとき、大山は支配人に「部屋に将棋の盤駒を入れときなさいよ」と言った。指されなくても邪魔にはならないと。あとで聞くと、駒箱の位置が少しずれていたそうだ。大山らしい機転である。

 実力のほどはわからないが、将棋がお好きだったことは確実だ。将棋を家族で楽しまれた写真がある。その写真を撮った人に、天皇は「早く撮らないと終わってしまうよ」と言われたらしい。そんなに早いということは、あまりお強くはなかったと推察できるとは大山の読みだが、お好きだったのは間違いない。プロと一局指されるところを見たかったと今にして思う。

 村山、正座して、かしこまっている。定刻前だが、大山は「もうやりましょう」と言って開始。

 この特別企画、第1局の対屋敷戦が四間飛車、第2局の先崎には中飛車。そして今度は三間と、これは大山のサービス精神だろう。

(中略)

 大山十五世名人に指してもらえるというのは、若い人には大変な喜びだろう。まともなら、めったに対局などつくものではない。

 升田実力制第四代名人のように、いつか、いつかと思っているうちに引退してしまい、とうとう指してもらえなかったという例もある。谷川名人は間に合わなかった。

 もうひとつ、A級現役のバリバリの大山と対局することの大きなプラスは、若手が最も勝ちにくい相手だという点だ。ちょうど1年前に本誌が大山-羽生の特別対局を企画したが、羽生は序盤のまずさを突かれて一蹴されている。今度の場合は1勝1敗の途中経過だが、内容は文句なしに大山の勝ち将棋。もし公式戦なら2連勝ではなかったか。

 村山もよくわかっている。超早指しで鳴る彼が、今日はいつになく慎重で、大山より消費時間がずっと多くなった。

 そして対振り飛車でよくやる左美濃に組み、▲7九角と2筋をうかがった。

(中略)

 △6四銀(7図)。

 いつもの大山らしからぬ短気の一手。この一手で局面は急転する。

 村山大山1

7図以下の指し手
▲6二歩△5五銀▲6一歩成△8五桂▲同歩△6六桂▲7一と△7八桂成▲7二と△同玉▲6四歩△同金▲5一竜(8図)

 △6四銀を大山が急いだのは、△6六桂を早く打ちたいためだったが危険だった。

 残り15分まで考えた村山の放った▲6二歩が、その罪をとがめた好手。△同金上は馬で銀を取って▲7一銀だし、△7一金も同じく▲9三銀があるから取れない。

 △5五銀以下は必然だが、村山は△6六桂に構わず▲7一とから▲7二とと、大山の守りの銀をはがしに行った。

「どちらが早くかけつくか、みたいだ」

と大山。こんな危急のときに冗談をいう。

 村山、口の中で何かつぶやき、首を振って▲6四歩。玉を狭める詰将棋のような手筋。

 大山、少考で△同金と取ったが、△同銀ならまだ混戦だったろう。△同金の方が敵玉に利くとしたのが負けにつながった。

 村山▲5一竜と肉薄だ。

村山大山2

8図以下の指し手
△3五角▲5二竜△6二桂▲8四桂△同香▲同歩△7七成桂▲同金△7八銀▲同金上△8九竜▲8八金打△9五桂▲同歩△9六銀▲同香△9八角▲8六玉(投了図) まで、119手で村山五段の勝ち。

 大山は△3五角と攻防に打った。

 階下ではこの手で△7七成桂▲同金△7八銀▲同金引△8五香▲8六歩△同香▲同玉△7五角以下詰むと湧いたが、途中の△7八銀に▲同金上△8九竜▲8八金打で詰まないとわかって検討はしぼんだ。ここでは大山の勝ちはもうなかった。

(中略)

 終盤の村山が寄せる。

 ▲5二竜から▲8四桂以下で一手すき。あとは村山玉が寄るかだが、さしもの大山でも寄らなかった。しかし△7八銀から△9五桂、△9六銀の打ち捨ての迫力をどうか盤に並べて味わってほしい。そして、最後、▲8六玉と逃げた投了図で、もしうっかり▲9七玉と逃げたら△8五桂でトン死!という怖さも。

村山大山3

 村山の会心局、一手の悪手もなかった。あの早指しの村山が全部時間を使い、一心不乱に読み、正座を通して戦ったからこその勝利だった。しかしこの将棋の疲れで村山は寝込んでしまい、次の対局を不戦敗になった。

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昭和64年1月7日午前6時33分、昭和天皇が皇居・吹上御所で崩御された。

この対局が行われたのはその翌日、つまり平成最初の日に、この大山-村山戦が行われたことになる。

1月8日は日曜日なので、この日の対局は他にはなかったものと思われ、非公式戦とはいえ、平成のプロ棋士同士の対局の第1局目が、大山-村山戦であったと言って良いだろう。

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村山聖五段(当時)の師匠の森信雄五段(当時)が朝の玄関のベンチに一人でポツンと座っている姿、「大丈夫か?」と村山五段に声を掛ける様子、などを想像しただけでも、涙が出そうになってくる。

本当に温かい師匠だ。

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昭和64年1月6日(金)の夜は、何人かで飲んで、家に帰ったのは1月7日(土)の午前3時過ぎだったと思う。

テレビをつけっぱなしで寝たのだが、午前6時過ぎにニュース速報が流れたあたりで目が覚めた。昭和天皇が危篤という報道だった。

それからはずっとテレビを見ていた。

その頃の私は、仕事面など公私の”公”の部分では好調だったものの、”私”の部分で自分の中で前年の12月から徐々に後悔をしはじめていたことがあった。(変な宗教に入信してしまったとか、変な買い物をさせられたとか、子供を産む産まないとか、大きな借金をしたとか、脅されていたとか、法に触れることに手を染め始めていたとかではなく、私的なこと)

昭和が終わってしまうことが決まった時点で、私にとっては前の年の11月までが昭和で、12月以降は昭和ではない時代のように感じられてならなかった。

そのようなこともあり、テレビを見ながら、昭和という時代が終わってしまうことの寂しさがより一層増幅していた。

1月8日も、ボケッとテレビを見ながら、前の日と同じようなことを考えていた。

1月下旬に、結果的に一気に悩みは解消したのだが、昭和から平成へ移り変わる頃というと、必ずこの時のことを思い出す。

(一体何だったんだ、という方は、私と直接会うようなことがあった時にお聞きください。お話しします)

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