七條兼三物語(前編)

とても面白く、かつ将棋史的に非常に貴重なエッセイ。

近代将棋1989年6月号、団鬼六さんの鬼六面白巷談「酔いどれ天国」より。

 秋葉原ラジオ会館の春の旅行会に招待され、三泊四日の四国旅行に参加した。

 七條兼三社長の御招待を受けたわけだが、これまで私は将棋に関する何かのパーティの席上で七條社長とは一、二回、チラとお眼にかかり、軽く会釈した程度で親しくお話しした事は一度もなかった。

 将棋ペンクラブ大賞の授賞式があって間もなくの事だが、七條社長より達筆のお手紙を頂戴した。三一書房より出版した鬼六将棋三昧が大変面白かった事やら、近代将棋に連載した「果し合い」が痛快だった事やら、おほめの言葉を頂戴して恐縮だったが、それに付け加えての今度の四国旅行のお誘いである。将棋を話題にして一献、傾けたいという意味なのだろう。四国には私はまだ一度も足を踏み入れた事がない。かねがね高知には取材に一度、出かけてみたいと思っていたのでこれはいい機会だと思い、七條社長の御好意を有難く頂戴する事にした。

 ただし、私の七條社長に関する知識は彼は財界人であり、詰将棋の名手であり、棋界の陰の貢献者であり、飲ん平であるという事ぐらいである。棋士に対してはアマプロ問わず面倒見のいい人だという事も人に聞いた事がある。気になるのはこれも専門棋士に聞いた事なのだが、非礼に対しては絶対に許さぬ殿様みたいな人で、昔、日本刀でおどかされた棋士も何人かいるという事であった。四国旅行に出かける前日、囲碁の高木九段と小料理屋で飲んだが、彼は七條社長の昔の武勇伝を語り、今はお年を召して多少、柔和になられたと思うが、もともとこわい人だから、特に酒の席は気をつけて下さい、などといった。私が酒の席でよく非礼を働くのを彼は知っているので忠告してくれたのかもしれない。しかし、今回、私は招待された身であり、相手はかつては暴君であっても、もう御年配なのだからこちらも分別してよろしくつき合える自信はあると高木九段にいった。第一、酒の方は私も医師にアルコール性肝炎と診断され、節制中の身であって、旅行中も社長とは将棋を指しても酒の方は微醺を帯びる程度にするつもりであった。(結果はその逆になってしまったが)

 しかし、こわい人だというけれど、パーティの席上なんかでチラとお眼にかかった印象ではとてもそんな人に見えなかった。高い鼻柱から真直に彫り込んだような彫刻的な容貌に、鋭いようで深い眼はこわいようだが、また妙に親しみやすい顔立ちになっている。ニイチェとかカーライルみたいな理知的な顔立ちで日本刀を振り廻すような人にはとても見えない。その理知的な顔立ちから学生時代はさぞや優等生だったと想像出来るが、しかし、英文和訳の試験でショパンのつづりをチョピンと書いて落第しかかった私と同じで、この社長の方は大学時代、ショパンをチョッピンと発音して恥をかいたらしく、学業成績の方はどうも大した事はなかったようである。

 この秋葉原ラジオ会館の旅行会は慣例として大山名人が参加される事になっているのだが、今年は肝臓癌の疑いがあって出席が危ぶまれていた。しかし、旅行前日の精密検査の結果、異常なし、と診断されて参加がきまり、一同、ほっとした。やはり、大山名人の参加がないと画竜点睛をかく事になる。数年前、大山名人は手術をされて癌を克服されたとうかがったが、病気は人が治してくれるものではなく、自分が治すものですよ、と、車中でも名人は語られたけど大山名人ならではの精神力である。

(中略)

 総勢45人の四国旅行は天気にも恵まれて、実に快適な慰安旅行であった。何しろ七條社長は豪気な人だから、つまり、金には糸目はつけねえ、といった大名旅行、宿泊地も超一流の豪華ホテルで連日の大宴会、まあ、私も出版社の慰安旅行の招待は何度か受けたが、そんなのとは全くケタが違うんだな。粋な大名が旅行する時は謡曲や琴の名手に俳諧師、茶人、講釈師なども引き連れたそうだが、それと似たようなもので、宴会だって、二枚重ねの座布団の上によろよろと腰を落とした途端に社長は、俺の前には酒、20本ばかり持って来い、と発声する。よろよろと腰を落としたというのは社長、以前、大腿骨を骨折されていささか足が御不自由なようで、それでものっけから酒、20本には恐れ入った。あんなお年でまさか、と思って仲居が銚子の本数などへらすと、御機嫌が悪くなる。どこだって、まさか、一人で飲み切れるものではないと思って要求する本数をへらして持ってくるから、以前の旅行会ではそれを計算に入れて50本要求したが正直に50本、持って来たので驚いた、と社長は苦笑していった。そんな事には驚かないが、その持ってきた50本を全部、飲んでしまったという社長のうわばみみたいな物凄さに驚くのである。

 宴会後、社長の部屋に呼ばれたので一局、御指南、頂けるのかと思いきや、また酒の延長で、おい、20本ばかり持ってきてくれ、と、社長、紺がすりの仲居に早速、命じている。宴会であれだけ飲んでまだ飲み足りぬらしい。社長が腰を据えて酒を飲み出すと、今まで部屋にいた2、3人の社員がそっと足音を忍ばせて廊下の方へ逃げ出していく。とても、この酒豪のお相手は努まらぬといった感じで、しかし、この社長―いや、社長というより私の眼からは秋葉原の大将といった感じに見えるのだが―この大将、なんぼ酔っ払って来たって言語に乱れは生じない。政界を語り、棋界を語って、論旨、すこぶる明快。時には痛烈な風刺が小気味よく飛ぶ事がある。特にこの大将、詩吟の名手で、それは宴会でも披露して、万座の喝采を受けたが、その漢詩的発送が酔談の中に出てくるので漢詩好きの私なんぞすっかり楽しくなり、妙に酒がうまくなってくるのだ。酒の話になっても、小人罪なし、杯を抱いて罪あり、且、その咎は酒にあらず、飲む者の賢愚にあり、といった調子になるわけで、勧酒詩を吟じながら酒を飲むような豪快さが感じられる。杜甫や李白を話題にしながら酒が飲めるなんて学生時代に戻ったように痛快で、ふと、気がつけば卓上に乱立した銚子はすっかり空になっていた。それに気づいた大将、けしからん、とばかりパチパチ手をたたいて酒を呼びつけようとする。いや、もう充分に頂きました、今宵はこれまで、といって、よろよろと立ち上がりかけると、こら、まて、と大将は私をつかまえようとしたけれど、もうすっかり酔いが廻って足と腰の自由がきかない。それ位の飲み方じゃ、まだ俺の酒の乾分にはなれねえ、と、大将、がなり出した時には社員の何人かが様子を見に来て、ようやくなだめすかせて寝室へ強引に運びこんだが、大将は床に寢かしつけられてからもしきりに大酒、飽淫に明け暮れした昔の時代を私に語り聞かせようとするのだ。

(つづく)

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秋葉原ラジオ会館の春の旅行会とは、秋葉原ラジオ会館の社員旅行のこと。春は国内、秋は海外と決まっていた。

面白い旅行は明日も続く。

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故・七條兼三氏は、秋葉原ラジオ会館の創業者で、現在の千駄ヶ谷の将棋会館建設の際には、真っ先に寄付を申し出て、建設中の仮住まい(高輪)の保証人にもなるなど、将棋界への多大な貢献があった。

また、詰将棋作家としても有名で、塚田賞を13回受賞している。

将棋と囲碁は七段、詩吟総伝師範(九段)、浮世絵、初版本、日本金貨のコレクターとしても高名だった。

七條兼三氏が亡くなったのは1989年12月24日だが、日本将棋連盟は2日後の12月26日付で八段を追贈した。

また、1992年には七條兼三氏の詰将棋作品集「将棋墨酔」が西東書房から刊行されている。

写真: DSC_0154

将棋世界1990年3月号、七條兼三氏の写真

 

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湯川博士さんが1998年の近代将棋で、七條兼三氏の生き方、考え方、生い立ち、棋士との交流、詰将棋のことなどについて書いている。

将棋界の大旦那「七條兼三」(1)

将棋界の大旦那「七條兼三」(2)

将棋界の大旦那「七條兼三」(3)

将棋界の大旦那「七條兼三」(4)

将棋界の大旦那「七條兼三」(5)

将棋界の大旦那「七條兼三」(6)

将棋界の大旦那「七條兼三」(最終回)

大山康晴十五世名人と塚田正夫九段と七條兼三氏