佐藤康光名人(当時)の律儀なフォロー

近代将棋2000年4月号、故・池崎和記さんの「カズキの観戦日記」より。

 某月某日

 彦根に羽生-佐藤康光の王将戦第2局を見に行く。到着したのは2日目の昼過ぎだったが、控え室にいくと谷川棋聖が来ていて「30分前に来たところです」という。

 対局場の彦根プリンスホテルは王将戦が毎年行われるところだ。大阪から近いので、例年だと関西棋士が「勉強のために」と、最低でも5、6人は集まるのだが、この日はなぜか谷川さんと安用寺さんだけだった。後日、ある棋士が「戦形が相掛かりだったでしょ。相掛かりはあまり勉強にならないんで…」と言っていたが、そういうものなんだろうか。

 勝負は羽生王将が勝った。これで2連勝である。非常に難解な終盤戦だったが、最後は佐藤名人がぽっきり折れたような、あっけない幕切れだった。感想戦は1時間45分と長かった。それだけ内容のある(変化の多い)将棋だったということだろう。 両対局者はまだ感想戦を続けたいような感じだったが、打ち上げが迫っていたのか、立会人に催促されて午後9時前に打ち切り。このため終盤の結論はあいまいなまま残った。

 私は打ち上げには出ず、ホテルのバーで飲んだ。仕事で来たわけではないので厚かましく出席するわけにはいかない。

 閉店まで飲んでバーを出ると打ち上げは終わっていた。

「対局したあとは眠れない」と棋士はよく言うが、これはライターの私もそうで、大勝負を見たあとは眠れない。それで佐藤名人の部屋に電話して「外に飲みにいきませんか」というと「ええ、いいですよ」とのこと。

 バーで偶然会ったカメラマンの炬口さんと河井さんも誘って4人で外へ。といっても彦根に知っている店はないので、タクシーの運転手さんに飲み屋街へ案内してもらう。店構えを見て「ここなら静かに飲めそう」と目星をつけて入ったつもりだったが、ドアを開けたとたん、カラオケが聞こえてきて、同時に目の前に美人の笑顔が。まずいな、と思ったが、他を探すのは面倒くさいので我慢することにした。こんなこともあるさ。

 棋士と飲む機会は多いが、そばに敗者がいるときは将棋の話をしないのが鉄則である。ところが棋士にも例外があって、自分から話し出す人がいる。例えば森下八段がそうだし、佐藤名人もそうだ。

「まだ△3七桂成でしたね」。佐藤さんがポツリとそう言った。94手目の変化で、感想戦では出なかった手だ。”詰めろ逃れの詰めろ”になるという。「それなら勝ちですか」「いや。手数が30手くらい伸びますが、でも負けでしょうね」

 将棋の話はこれだけだが、2時間ほど歓談したあと(佐藤さんは料理を作るのがうまいらしい)、帰りのタクシーの中で思わぬ伏兵がいた。将棋ファンらしい運転手さんが「さっき、谷川さんをホテルから駅まで乗せて行きました」と言うので(打ち上げのあとだろう)「へーっ」とあいずちを打ったら、「きょう王将戦をやってましたよね。どっちが勝ちました?」と、きつい追撃である。暗かったので名人が乗っていることに気づかなかったのだろう。

「明日の夕刊を見て下さい」だれかがそう言った。

某月某日

 名人からハガキが届く。王将戦第2局の2日後である。終盤の変化が3手ほど書いてあって(前記の△3七桂成の代替手)「ひょっとすると勝ちだったかもしれません」と結んであった。

 盤に並べて確認してみると、なるほど、妙手順である。いまに始まったことではないけれど、こういう律儀なフォローをしてくれるのが佐藤名人のすごいところだ。

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感想戦あるいは感想戦直後には見えていなかった手が数日後に発見されるということが結構ある。

観戦記などを書く場合、感想戦だけの取材では不十分なケースも出てくる場合がある。

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ホテルのバーで一人飲む池崎さんが粋だ。

私も一人で飲みに行くことも多かったが、それは店の人と常に話ができる形態の店ばかりで、居酒屋などへ一人で行ったことはまだ一度もない。

それはそれとして、私が一人で飲みに行ける店が長い年月の間にそれぞれ閉店してしまって、今では一人で行くところがないという状態になっている。

やや寂しいことではあるが、長い年月を経てのことなので、それも仕方がないことだと思っている。