丸田祐三九段が亡くなられた。享年95歳。
丸田九段は、私が将棋に興味を持ち始めた頃の日本将棋連盟会長だった。
「丸田流ひねり飛車」、「小太刀の名手」。名棋士であるとともに、日本将棋連盟の運営面でも大きな活躍をされている。
また、このブログでもよく取り上げた話だが、麻雀牌の模様を憶えてしまうほど記憶力の良さが有名だ。
また、故・大山康晴十五世名人が本当に心を許した先輩棋士でもある。
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将棋世界1996年6月号、先崎学六段(当時)の「先崎学の気楽にいこう」より。
三月某日―所用があって連盟に行くと、竜王戦の5組で、丸田祐三九段-佐藤大五郎九段という一局が指されていた。二人ともこの三月限りで引退される名棋士である。僕がこの世界に入ったのは、二人の棋士人生において晩年だったのだろうが、それでも、二人の個性は充分に脳裏に焼きついている。
僕はB級1組時代の丸田先生を知っている。負けるときは実に淡白に投了するが、頑張るときは、とことん粘って勝つのが常だった。粘るといっても、勝ち目のないクソ粘りではなく、上品な粘り方をした。
ある時、初段にも満たない先崎少年は控え室で検討を見ていた。えらく良さそうに見えた手があったので、こう指したら―と言ってみたとき、その場にいた丸田先生に、絶妙の返し技を指摘された。僕がしゅんとしていると「でも君、発想はいいよ」と言われたことがあった。
最近では、さすがに勝率こそ悪くなったものの、タイトル戦の控え室で盤に向かったときの手の見え方は若手のバリバリに劣らないものがあった。
丸田先生のイメージというと、ヒネリ飛車、歩使いの名手、形に明るいということになるようだが、僕の受けた印象は、中盤戦における発想が柔軟ということだった。前に王位戦で指したとき、駒がぶつかった瞬間にさっと身を翻すような手を指されて、一気に敗戦になったことがあった。下品な粘りを連発してなんとか逆転勝ちしたものの、とても勝った気にはなれなかった。
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将棋世界2005年10月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 特別編 丸田祐三九段~その3~」より。聞き書きは木屋太二さん。
将棋界の娯楽の歴史をさかのぼると、大成会の頃は花札が盛んだった。おいちょかぶです。遊びをやる時は盤駒を片付けて堂々と対局室でやっていた。ひどい時には現ナマをはってね、百円とか。当時の百円と言えば大変だ。でかい勝負になったこともある。将棋界には、書きにくい話がありますね(笑)。
戦後は麻雀が主役だ。これには理由があった。対局が終われば棋士は寝る。しかし、布団を何人分も頼むのは大変だ。その点、麻雀が一卓あれば四人用の寝具と同じになる。見ている者もいれれば、もっとだ。だから麻雀を揃えてください、布団はなくても文句は言いません、ということで始まった。
その頃、麻雀は大阪の方ではそれほどやっていなかったが、「私たちも覚えますから東京の残った牌をください」と言ってきた。それで私が持って行った。大阪は少し慣れてから新品を買ったんです。
私たちが麻雀を始めた頃は竹牌だった。竹牌は背中の竹の目が牌によって微妙に違う。これを三昧でも五枚でも覚えておくと、打つ時に有利になる。パイパン、白ですね。これは予備のぶんと合わせて八枚ある。実際には四枚しか使わないから、他の牌と比べると角の減り方が少ない。そうすると角の立っているのがパイパンだ、と分かる訳です。誰かが一色手をやっている。こういう時も見当がついているから絶対安心だった。竹の目は自然に覚えた。
麻雀は軍隊時代に将棋や囲碁と一緒に教えていた。だから成績は悪くなかった。負けるものとは思っていなかった。麻雀が好きだった棋士は塚田正夫さん(名誉十段)、渡辺東一さん(名誉九段)、大山さん。強かったのは加藤博二さん(九段)。この人は堅実だった。
(以下略)
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謹んでご冥福をお祈りいたします。