将棋世界1983年1月号、乱発!激発!ホンネ座談会「野獣が最後に勝つ」より。出席者はシナリオライターの石堂淑朗さん、大内延介八段(当時)、河口俊彦五段(当時)。司会は野口益雄編集長(当時)。
千日手をどう思う
(本誌)82年はタイトルの移動が頻繁にあったわけで、83年は相当荒れ模様ですね。
大内 とにかく名人が交代したというのは愉快というか、意義がありました。
(本誌)愉快はともかく、大内さんは随分加藤攻撃をしていたようですが―
大内 いや、何もしていません。四つの事しか言ってないですよ。
石堂 カラ咳するな。後ろから盤を見るな。それから―
大内 昼飯と夕飯と同じ物を食べるな。バンドをつかんでズボンをずり上げるな。ずり上げる時加藤さんのアソコが、ちょうど僕の目の前に来るんです。あれはたまらない(笑い)。それだけですよ。個人的には嫌いでも何でもないですから。
(本誌)しかし大内さんが言うと、妙に印象に残ってしまう。
大内 攻撃的に聞こえるんですかね。米長さんなんかだと、加藤さんが後ろで見ると、逆に加藤さんのところへ行って見るようにするんですが、僕にはそういうユーモアが苦手でして……。許せなくなるんです。
河口 この間の将棋では一回もカラ咳をしなかったですよ。
石堂 勝敗はどうだったんですか。
河口 加藤さんが負けたんですけどね。
(本誌)大内さんなり米長さんなり、何人か有力な棋士が加藤攻撃をするんですが、名人には攻撃されるいわれはないと思います。どうなんでしょう。
大内 だから、例の部分だけですよ。中原さんはどうとらえているんだろう。案外平気なのかな。
河口 そんなことはない。子供が風邪を引くと、加藤さんみたいな咳をする、と気にするらしいですよ(笑い)。
石堂 加藤さんは名人を取ってから変わったように思いませんか。
大内 躁状態というか、よくしゃべるようになりました。以前はあまりしゃべらず、うちこんでいる感じだったんだけど。
河口 いや、前からそうだったお思います。それで名人も取れたと思う。将棋も早くなったしね。
大内 そう、時間の使い方は、かなり工夫してたみたいです。
石堂 今日は、いくつかお聞きしたい項目を用意してきました。これも加藤さんに関係があることですが、まず千日手の問題なんです。名人就位式で加藤さんは「序盤の千日手は避けるべきだが、終盤の千日手は非難される覚えはない」といっていますけど、どうなんでしょう。
大内 千日手には色々な考え方があります。でも加藤さんが分類していうほど、あの人は潔癖じゃないですよ。後手番より先手番になった方が得だという考え方でしょう。勝つことを第一義と考えている。
石堂 これは二上さんの自戦解説なんですが、昭和38年ですか、対升田九段戦で「本局は千日手指し直しである。意識して千日手にしたのは、棋士生活の中で本局だけである」といっているんですね。二上先生は嘘つかない人でしょう。
大内 二上先生が、初めから千日手にしたというんですか。先後の問題なんでしょうが、でも、二上さんあたりは、技というものを考える人だから、千日手はかなり自分自身に対して抵抗があるはずです。加藤さんは何とも思っていないところがある。何時間かけても、体力で来い、最後には勝つんだという考え方があると思います。
石堂 リアルな考え方は、勝負としてみれば許される範囲です。しかし我々見ている側としては、たとえば名人戦で千日手二局、持将棋一局で、三局スカを食わされたような気がしてしまう。千日手局など、本来は新聞に載せてもしょうがないと思いますね。
河口 僕もそのことを言いたい。加藤さんだけでなく、つまり棋士側の言い分も一理あると思うんですけど、ファンが問題にしているところと、争点がズレています。
石堂 アマは千日手なんかにならないですからね。
河口 一つは、タイトル戦とくに名人戦に出るような人は、公的な責任がある。千日手を無理に打開して負けて、辛いのはオレだと言われればそうなんですけど―。第6局だったか、NHKのニュースセンター9時が、時間をあけて結果を待っていたわけでしょう。それがナシになってしまった。将棋を宣伝する絶好のチャンスだったんですけどね。
石堂 NHKは「ワーッ」とか言って、帰っていきましたよ。
河口 そうなると、次からは取材しなくなるかもしれません。千日手は規則で解決するよりないですね。いまのルールでは無理なんで人為的なルールを作るべきだと思います。
(本誌)河口さんは、いつか「千日手は先手を負けにせよ」と言っていましたね。
河口 端的にいえばですが―。
大内 千日手問題は将棋界のガンだ。でも加藤さんが千日手にするのは止むを得ないところもある。勝負ですからね。しかし序盤はダメで終盤はよいなどというのは嘘ですよ。弁解してはいけない。堂々とやればいいんです。
(本誌)やはり千日手では、加藤さんが第一人者ですか。
大内 そうでしょう。大山さんとの将棋ですけど、同じような手順を四、五十手、平気で指すわけですよ。加藤さんほどの人なら一回で読めるはずだし、そもそも手を変えるつもりでいるんですから。大山先生なんかアキレちゃって―でも指さなきゃならないから指す。打開すれば、すぐに終わるけれど終わらせない。あれだけの人が、なぜそうしなきゃならないのか、その辺の神経がよくわからない。勝負に対する異常な執念というか、そういう人でなければ名人は取れないかもしれません。あの人を見ていると僕なんかダメだなと思いますよ。
河口 王座戦の対長谷部戦も凄かったでしょう。
大内 千日手になり、持将棋になり、三局くらいやった。長谷部さん、殺されるんじゃないかと言っていましたね。
(本誌)長谷部さんに弱音を吐かせるんじゃ、相当に凄い。
大内 とにかく、勝トウ、勝トウの一心です。
石堂 それはシャレですか。(笑い)
河口 将棋そのものは素晴らしい。千日手さえなければ、あんな見事な将棋もないと思いますけどね。
「矢倉が最高」とはヒドイ
大内 僕は石堂さんとゆっくりお話をするのは、今日が初めてなんですけど、石堂さんがおっしゃったことで、ちょっと気になったことがあったんです。つまり「将棋とは矢倉である。矢倉以外は将棋じゃない」と、おっしゃっていたでしょう。これは許せない。今日は戦わなきゃいけないな、と思ってきたんです(笑い)。
石堂 ざっくばらんにやりましょう。ビールをやめにして、お酒にしよう(笑い)。
大内 矢倉も一つの世界ではあるんです。けれどもそれは趣味嗜好の問題で、僕とか内藤さんが矢倉をあまり指さないのは、どうも研究の戦いというのがイヤなんですね。矢倉をやると、アマでもプロでも、何十手かは同じ形になるでしょう。そこが安易に感じられる。内藤さんの将棋をアマが真似すると、バラバラになってしまう。内藤流の一手一手の創造性は真似ができません。たとえば空中戦法や僕のツノ銀中飛車などは、矢倉とは違う世界なんです。
石堂 僕が振飛車に違和感があるというのは、戦後将棋をずっと見てきまして、大山・升田あの辺が、考えるのに少々億劫になってきた頃 振飛車を連採し始めたでしょう。それに棋戦が増え、対局数が増えると、全部が全部シンドイ将棋はやっていられない。そこで振飛車をやるようになったんじゃないかと、つまり大山・升田の二大巨匠が楽だから振飛車をやるようになったんじゃないか、振飛車は楽な戦法じゃないかというのが、根本的にはあるわけです。本当のことなど、僕には分かりっこないんですが、ジャーナリスティックに、それはどういう訳だと、酔っ払った時にわめいたわけです。
大内 米長さんも「矢倉は将棋の純文学」と言っている。けれど、それでは純文学とは何か、大衆文学とは何かということです。歴史的に見れば振飛車の方が古く、矢倉が出てくるのはそのあとなんです。名人戦などで矢倉をやっているから純文学というんじゃ、見方が浅いと思いますね。だから石堂さんが「将棋は矢倉」というのは、甘いと思うんです。もっと広い意味で将棋を見てほしい。石堂さんあたりがいうと、影響が大きんですよ(笑い)。
石堂 でも、もう一つ、升田さんが大内さんなどの将棋を評して、頭が割れるくらい矢倉をやるべきだと言っているのを読んだことがありまして、その辺も強く印象に残っているんです。
河口 今日は矢倉派がいないんで、ちょっとね……。(笑い)
大内 なるほど石堂さんの言うこともわかりますが、矢倉が振飛車より序盤構造が立派だとは思えませんね。振飛車だってよく見れば大野流から升田式、また大山流四間飛車とか内藤流とか、色々構造を持っている。居飛車側に対応して動くというのも、逆に大変な部分があるんです。内藤さんの言葉を借りれば「棋は対話」であって、だから矢倉も対話なら、居飛車対振飛車も対話だし、タテ歩取りも対話で、すべて同じなんです。振飛車だって随分発展し、これからもドンドン変わっていくでしょう。僕なんか、弟子に矢倉をやりなさいとか、言ったことがないですね。矢倉じゃなければ、頭が割れるほど考えられないということはありませんよ。
河口 僕なんかだと、矢倉がいい振飛車がいいというのは、フランス料理がいい、日本料理がいいという感じだと思っていますから、石堂さんに、そんな深い事情があるとは、ついつい思いませんでした。けれど、洋食和食の差があても、料理の仕方とか味が違うだけで、食物としてみれば本質は同じだと思いますね。
石堂 ただ我々は矢倉のスレスレの、一触即発の将棋を見るとたまらないわけです。穴熊対居飛車穴熊の棋譜なんかあっても、こんなもの見るもんか!と思ってしまう(笑い)
大内 そういうとらえ方ならいいんです。精神的なものは個人差ですからね。しかし戦法の発展史的な方向から振飛車はダメだと言われるのはイヤなんです。
(本誌)誰か、大内さんのことを隠れた矢倉の権威なんて言っていませんでしたか。
大内 矢倉は三段時代に随分やっていました。その頃は、大山・升田の矢倉の全盛期でして、また一方で大野源一先生、松田茂役先生が一風変わった振飛車をやっていた。そういう時代で、両方吸収してきたわけです。米長さんや僕とかが、ですね。
石堂 大内さんは名人戦で、一度矢倉をやり、中原さんに快勝しましたね。
大内 棋士とはおかしなところがありまして、対局日が迫ってくると修羅場に立たされる気分になってくるわけです。どの戦法で行こうか悩むんですが、対局の前日になってもはっきり決まらないことがある。決めないと安心感がなくて、棋書を読んだり夜中に突如将棋会館へ行って、深夜までやっている対局を見て”コレだ”と自己暗示をかけたりするんですね。それで全く違う世界に入っていくようなところがある。
石堂 ほう、なるほど。
大内 名人戦の時は、穴熊で中原さんを負かすよと宣言して臨んだわけでして、矢倉をやろうなどという気は全くなかったんです。が、対局場入りして、寝床に入って、明日いよいよだなという時、中原もオレも三段時代は同じだったと思ったわけです。あの時代は何をやっていたんだろう、そうだ矢倉だ。じゃあ矢倉をやろう。あの頃は中原よりオレの方が強かったんじゃないかとね(笑い)。
石堂 中原も三段、オレも三段と置きかえちゃうわけですか。
大内 ええ、それでアイツよりオレの方が強いんだと自己暗示をかけて、矢倉をやったんです。
(つづく)
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中原誠十六世名人が初めて名人位を失い、加藤一二三名人・十段、内藤國雄王位・王座、森雞二棋聖、米長邦雄棋王、大山康晴王将という時代。
時期的には、羽生世代が奨励会に入会する1ヵ月前。
今では誰もが微笑んでしまう、加藤一二三九段のカラ咳、後ろから盤を見る、昼飯と夕飯と同じ物を食べる、バンドをつかんでズボンをずり上げるなどの行動が、対局相手から見ればかなりの奇行と感じられていた頃でもある。
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論客の石堂淑朗さん、小気味の良い江戸っ子の大内延介八段(当時)、46歳だった河口俊彦五段(当時)と、なかなか挑発的な突っ込みを入れる司会の野口益雄編集長の組み合わせで、本音100%の座談会はまだまだ続く。
(つづく)