将棋世界1986年2月号、鈴木宏彦さんの第24期十段戦〔米長邦雄十段-中原誠名人〕第5局観戦記「米長騎馬隊、長篠を疾走す」より。
「この将棋のポイントを一つだけ教えてください」という記者の質問に、米長はノータイムで「▲1五歩(1図)。この仕掛けが唯一、最大のポイント」と答えた。
実は”1図の局面からの仕掛けは無理”というのがプロ間の定説なのである。事実、10月に行われた王座戦第4局では谷川前名人が中原王座を相手に、この局面で仕掛け(手順は少し違う)、完敗を喫している。
では、米長はこの重大な十段戦の対局で、敢えて定説に挑戦してみせたのであろうか。
「そんな序盤のことを聞かれたって俺にはわからないよ。確かに、この仕掛けは無理なのかもしれん。いや、俺も無理なんだろうと思っている。しかし、こう指したいと思ったから、こう指したんだ。この将棋で、中原がこう受けるべきだったとか、こう指せば先手の攻めは切れていた、とかいうのはあまり意味がない。彼女とホテルに行こうと思って、ホテルに行ったんだ。その前の食事をどうすべきとか、映画を見るべきとか、そういったことは意味がないだろう。対局の前日、長篠の古戦場跡を見て、やっぱり俺の血が騒いだんだな。信玄が上洛の夢に破れ、勝頼の無敵騎馬軍団が、織田、徳川の鉄砲隊に敗れて散ったこの地でね、俺も命懸けの攻めをしてみたくなった。敗れても、またよしの心境でね」
少々、表現が荒々しいのは、対局直後の興奮が残っていたからであろう。(これは対局日の夜、東京へ帰る列車の中での話である)なにしろ、この将棋は、とてつもなく激しかった。そして、米長はその激しい勝負に勝ったのである。
(中略)
次の(2図からの)▲4五銀から王座戦第4局と離れ、未知の局面である。王座戦で谷川は、▲7五歩と突いたが、中原に△4四歩▲7四歩△6五桂▲6六歩△3六歩▲2五桂△3七歩成▲同金△2三歩▲3四飛△3三桂、とうまく切り返され、不利になった。もっとも本譜の▲4五銀は、谷川も中原も当然その時に読んでいて、中原は「▲4五銀なら△2三歩▲3四飛△8八角成▲同銀△6三銀で後手も頑張れます」と言っているのである。(本誌60年12月号)しかし、中原が実際に指したのは△6三銀の頑張りではなく、△3三金の反撃であった。
「だから研究と実戦は違うんだ」と米長。「頭で悪いと思っていても、どうしてもそう指したいということがある。そうした方が結果がいいことが多い」
中原は△3三金について「やっぱり、こうやりたいんだよ」と一言
(以下略)
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「彼女とホテルに行こうと思って、ホテルに行ったんだ。その前の食事をどうすべきとか、映画を見るべきとか、そういったことは意味がないだろう」は、妙に説得力がある言葉だ。
中原誠名人の△3三金は決して悪い手ではなかったが、終盤での見落としがあって敗れてしまう。
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将棋世界1995年2月号、野口健一さんの「第7期竜王戦七番勝負 自然体の強者」より。
竜王戦のさなか、ある若手棋士が、
「羽生以前、以降では将棋の作りが全く違うんです」
と語ったことがある。
20手~30手の辺りで勝負がついてしまこともあるほど格段に研究が進んだ序盤戦術。中盤での先入観に捕らわれない柔軟な思考。時間に追われても決して間違えない正確な終盤力。こういった現代将棋の特質を全て兼ね備えているのが羽生である、という意味だった。
また、羽生を打ち破るのは、羽生の将棋を勉強して強くなった若手しかいない、とも。
(以下略)
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中原名人は1986年当時、1図の▲1五歩では▲5八玉で、双方とも仕掛けることができないので千日手にならざるを得ない将棋と結論を出している。
十段戦の米長-中原戦が行われた1986年は、まだ研究会のような形態が広くは存在していなかった頃。
米長邦雄永世棋聖は、「羽生以降」の時代だったなら、▲1五歩(1図)とは指していなかっただろう。
第24期十段戦第5局の米長-中原戦は、1985年12月5、6日に行われている。
羽生善治四段の誕生は1985年12月18日。
そういう意味では、第24期十段戦第5局は「羽生以前」を象徴するような一局だったのかもしれない。