「谷川さんをツモろう」

近代将棋1989年11月号、塚田泰明八段(当時)の連載エッセイ「ライトな気分で」より。

 9月某日。

 私は午前10時30分上野発で、茨城県の筑波へ向かった。

 将棋大会の中での指導対局が私の仕事である。

 現地には12時頃に着き、4時には仕事が終わった。

 上野に戻って来たのは、午後6時。行く前に考えていたよりも、随分と早く東京に戻れた。

「さて、これからどうしよう…」

 こういった場合、「自宅に戻る」手は、常に3位以内に入る、というのが仲間内では定跡となっているが、せっかく時間ができたのに、という気もした。

 で、3本電話をかけた後(この3本では、まるで収穫はなかったが)、

「そうだ、連盟へ行こう。対局もやっているだろうし、文壇将棋大会も行われているらしいし…」

 6時40分、私は連盟に着いた。

 文壇将棋大会は既に終わっていて、対局の方も夕食休憩のない3時間のものが多く、現在進行形は、谷川VS加藤(一)戦のみで、それは夕食休憩に入っていた。

「これは選択を誤ったかな、帰ろうかな」と思っていたら、誰かが、

「3階で島竜王さん達がモノポリーをやってますよ」

と教えてくれた。

 モノポリーは、最近急激に連盟で流行ってきた。島さんがからむものは、何故だか流行るスピードが早い。

 私が3階へ行った頃、ちょうと1ゲーム終わり、みんな納得がいかないようで、「もう1局」という雰囲気になり、「じゃ8時25分までね」と誰かが言って、ゲームが始まった。ちなみにモノポリーは、1ゲーム90分でやることになっている。

 私は少し観戦していたが、お腹がすいてきたので、先崎君(学四段)を誘って夕食を。

 1時間程で連盟へ戻ってきて、谷川-加藤戦を勉強することにした。

 どうも連盟に来ると、仲々帰る事ができない。いつものパターンだけど。

4階で、谷川-加藤戦の進行が映っているTVを見ながら研究しようと行ってみると、モノポリーを終えた面々が居て、やっている対局が1局にもかかわらず、桂の間がごったがえしている。谷川-加藤戦も、随分進行が早い。

 この将棋、加藤優勢で終盤を迎えたが、そこは谷川流の終盤で差を詰め、逆転。

「やあ、流石に谷川先生ですねえ」

とみんな感心していたところ、谷川さんが、3手必至をかければ勝ちなのに、「らしく」詰ましに行ったのがすっぽ抜けで、金を1枚渡したために自陣が詰んでしまい、逆転。加藤勝ち。

 この頃、桂の間の何人かは、「谷川さんをツモろう」という話になり、感想戦が1時間ぐらいかかるから、と、何故だかその時間でモノポリーをやろう、となってしまい、私も参加する事になってしまった。

 6人でやったのだが、何故か私が勝ってしまった。モノポリーは展開のゲームなので、まあ、私もたまには勝つのだが、どうもこのゲームの急所のツボというものがよく分からない。

 谷川さんが桂の間に来たので、連盟を出る事にする。残ったメンバーは、谷川、島、大野(八一雄五段)、櫛田(陽一四段)、小倉(久史四段)、先崎、そして私の7人。

 さあ、どうしましょうか、という事になったのだが、島さんは飲みに行かないし、塚田君は麻雀ができない。で、結局、私の新宿の部屋へ行くことにした。

 この日、谷川、島、大野は対局でみんな負け。他の4人も勝ちまくっているとは言えず、簡単に言えば、暗い7人が集まったわけだ。

 しかし、7人も暗い人々が集まると、その場というのは意外と明るいもので、結構盛り上がっていた。

 お酒の飲みたい人はお酒、話したい人は話し、疲れている人はそこらへんで寝ている、という、協調性のないメンバーなのだが。

 そのうち、最近明るいという、もっぱらのウワサである、中村さんを呼ぼう、という案が出て、私と同じマンションの4階上に住んでいる中村さんを招く事になった。

 初めのTELでは不在だったが、留守録にメッセージを残しておいたら、午前12時半頃、中村さんが登場。みんなから総攻撃を食っていた。

 この日は金曜日。東京の金曜日の深夜は車が拾えない。

 で、拾える時間まで、という感じで麻雀が始まった。できない私の部屋に雀卓があるはずはなく、もちろん中村邸からの持ち込みである。

 将棋連盟の主流は3人麻雀で(知ってます?)、これは4人麻雀に比べて、展開が早く、荒っぽくて、博打性が強いんだそうだ。

 私にはさっぱり理解できず、まあ、私の良い所と言えば、麻雀や競馬等、ギャンブル系をやらない事ぐらいだから、これでいいのかも。午前3時―。車も拾える時間だ。解散、ということになった。みんな、それぞれの場所で、それぞれの朝を迎える。(ちなみに私の場合は、昼でしたが―)

* * *

 この日のような事は、よくある訳ではないが、そんなに珍しい事でもない。ただ、7人というのは少し多めだった。私の部屋は満席でした。

 まあ、こんな事が出来るのも、独身の仲間が多いうちだけだとは思うが。

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名人(谷川名人)と竜王(島竜王)が一緒に遊ぶという、よくよく考えてみると、その後の時代では決してなかったであろうこと(時の名人と竜王が一緒に遊ぶこと)が、この時代は実現されていたことがわかる。

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それにしても、この良い意味でのユルい感じがたまらなくいい。

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塚田泰明八段(当時)が「私の新宿の部屋」と書いているが、当時の誌上で公開されていた住所録では塚田八段は杉並区、中村修七段(当時)は町田市となっているので、新宿のマンションは、塚田八段、中村七段とも研究会用の部屋として利用していたと考えられる。

 

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