将棋世界1984年9月号、能智映さんの第25期王位戦〔加藤一二三九段-高橋道雄王位〕第1局観戦記「静かな対決、加藤が先勝」より。
湯の山温泉では、つい先だって谷川浩司名人-森安秀光八段の名人戦があった。しかし、その対局場は「グランドホテル紅葉」。この王位戦は板谷進八段の世話で「寿亭」だった。5年前も中原誠十段-米長邦雄三冠王の王位戦を行った場所なので旅館の人たちと顔を合わせるのもなつかしい。
歓迎の宴は地元の有力者らも出席してにぎやかだった。かわいいお嬢さんが二人現われて高橋と加藤に花束を贈った。実にうれしそうな二人の顔が印象に残っている。
(中略)
酒宴のあとのマージャンもない。碁盤は部屋の片隅に置かれたまま。まずかに板谷進八段が若い編集者たちに将棋のお稽古をつけているのが余興といえば余興。
「川の音が気になる」といって板谷進八段と部屋を交換した加藤、「いい旅館ですね」と感心しきりの高橋はうんと早く部屋に引きこもった。
雨音が激しくなっている。
(中略)
高橋の手で駒が盤上に散らされ、記録係が駒を振って加藤の先番が決まった。室内は静かだが、対局場のすぐ下を流れる川が、雨で水かさを増して大きな瀬音を立てている。
またいらぬことを思い出す。以前、加藤が箱根の旅館の滝の音が気になるといって、滝を止めさせたという有名な話だ。しかし、川の音ではどうしようもない。
終局後のうちとけた席で加藤にそれを話したら、「いや、止まらないものは止めてくれとはいいませんよ」と笑っていた。
(以下略)
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止められそうなものを止めなければベストを尽くしたとは言い難い。
しかし、水攻めをやったことのある豊臣秀吉でさえ川を止めた実績はない。
「いや、止まらないものは止めてくれとはいいませんよ」、とても味わい深い言葉だ。