人情スパゲティ

将棋世界1998年8月号、増田裕司四段(当時)の「待ったが許されるならば……」より。

 誰でも自分の人生を変える様な出会い(偶然)というのがあると思う。僕の場合は2回あった。小学校4年の時に、家族でスーパーに買い物に行った時、父親が昔の幼なじみの友達と25年ぶりくらいに再会した。その頃の僕は、将棋のルールは知っていたが、興味はあまりなかった。

 それから2年後、力だめしに参加した3人1組の学校別の団体戦で関西大会に出場したら、優勝してしまった。それで全国大会に出場したら、そこには米長棋王(当時)、先崎3級、林葉4級が来ていた。米長棋王に2枚落ちで指導してもらい負けた。終盤に王手飛車をかけられた。

 大会も終わりに近づいた頃、先崎3級らしき人が近くにいたので、勇気を出して「2枚落ちでお願いします」と頼んだが、「弱いですから」と断られた。そこを無理に頼んで指してもらったが、メチャメチャ弱い。イヤな予感がして「先崎3級ですよねぇ」と聞くと、「いえ、違います」との返事。顔が似ていただけだった。

 その大会に出場した後、プロの道に進みたいとぼんやり思ったが、将棋連盟にも行った事がないしどうしたらいいかわからず困っていたら、何とスーパーで父親と再会した人の部下が、南口九段(故人)の息子さんだと聞いた時は運命的なものを感じた。

 これで、僕の進路は決まってしまった。結局、6年生の3学期から南口教室に通う事になった。土曜日、学校が終わって奈良の実家から京都の教室に行って泊めてもらい、日曜日に帰るという生活が1年程続いた。土曜の夜は、先生と食事に行く事が多かったが、1人の時もあり、狭い路地裏の食堂で他人丼を食べた時は本当に心細かった。日曜の昼は1人だったので、決まってギョーザの王将に行って焼飯を食べていた。焼飯は一番安かったし、他の料理を頼む心の余裕がなかった。毎週、焼飯を頼むので、店に入ると店員の人が、「若僧、また来たか」という顔でニヤリと笑い、注文する前に焼飯を作っていた様な気がしたのは気のせいだろうか。

 その後、南口先生は病気で倒れられたので、その弟子の森六段がかわりに師匠になってくださった。

 2回目の偶然は、僕が奨励会の1級の時だった。奨励会に入会したのは中学3年の時で、6級と5級は長かったが、高校2年の7月に4級、翌年の2月には1級になっていた。1級に昇級してからもノンストップで11勝3敗を取り、2番連続の昇段の一番だった。1局目は負けて、2局目は相性の良い3級の人だった。もう初段になったと思ったし、周りもなぜあの人を昇段の一番にあてるのだという空気だったが、負けてしまった。待ったが許されるならば、この日に戻してほしい。この連敗の後もすぐに昇段の一番を迎えたが、また逃してしまった。

 流れというのは恐ろしいもので、それ以来、逆噴射で2勝8敗になりBを取った。すぐにBを消したがまた、無駄星なく2勝8敗を取ってBに落ちた。

「もういいかな……」と本当に奨励会を今すぐ辞めようと思ったのは最初で最後だった。だいぶ差をつけていた後輩が1級に昇級し、肩を並べてきたし、2、3日後には専門学校での新しい生活もあったので、学校一本で行こうと思いながら天王寺駅周辺をさまよっていると、ある先生と偶然会った。

先生「増田君、今日はなんや」

僕「奨励会でした……」

 元気のない姿を見て、先生はスパゲティ屋に連れて行ってくださった。僕は、「奨励会を辞めようと思っています」と言った。我慢していたが、勝手に涙が出てきて止まらなくなった。中学、高校と将棋漬けで来たのが無駄になるのかと思うとたまらなくなった。先生も目の前で泣かれたから困ったと思うが、説得してくださった。

 先生は、「私に勝とうと思ったらどうしたらいいと思う」と言われた。僕が、「得意戦法で戦う、ですか?」と聞けば、「それでは私には勝てない。若さだ。若さでは絶対に負ける」と言われた。

それから、気分を新たにして頑張ったら5ヵ月後に初段になる事ができた。

 あの時、木下先生に偶然会わなかったら奨励会を辞めていたと思う。そして、何年かたってから後悔していたかもしれない。

 二段、三段とまずまずのペースで昇段したが、三段時代で6年の年月を費やす事になる。その間、木下先生は何回もアドバイスをしてくださった。まるで自分の弟子の様に。

 奨励会を辞めようと思ってから8年半後、ようやく四段になる事ができた。

 しかし、初心を忘れたらだめだと思い、あのスパゲティ屋に行ってみたが、もうその店はなかった。

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故・木下晃七段は村上真一八段門下なので南口繁一九段とは同門。増田裕司六段から見れば叔父筋・大叔父筋にあたる。

将棋世界2000年1月号付録「2000年・棋士名鑑」によると、木下七段は奨励会6級時代が長く、「奨励会のヌシ」と言われていたという。

そのような木下七段だったからこそ、増田裕司1級(当時)の気持ちが痛いほどわかったのだろう。

奇しくも、増田六段は木下七段と同じ12年で奨励会を卒業する。

2000年の春、木下七段の現役最後の対局相手は増田裕司四段(当時)だった。

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「若さだ!」――増田裕司六段を変えた木下晃七段の言葉(『NHK将棋講座』2015年2月号より…NHKテキストView)