1993年の珠玉のエッセイ

珠玉のエッセイ。

将棋世界1994年1月号、中平邦彦さんの「ポケットに夢を」より。

 うろ覚えで言ふのだが、トム・ソーヤのポケットにはたしか、オハジキと、青いガラスびんのかけらと、糸巻で作った大砲と、カンシャク玉と、子犬の首輪がはいってゐた。これこそは男のポケットの原型である。(丸谷才一)

   

 バーゲンでイタリア製のジャケットを買った。両脇のポケットに手を入れようとしたら、きっちり縫いつけてあって用をなさない。

 思うに両脇のポケットには物を入れるものではないと言っている。型が崩れて、みっともないからである。

 そうか、まあいいやと思った。どうせ何も入れないのだから、ちっとも困らない。上衣とズボン、それにコートを着たら、男のポケットは二十もあるが、使わない方が多い。丸谷さんは、それが無益にしてかつ不必要なもの故に男にとって捨てるに忍びない重要なものだという。

 そのジャケットを着るたびに、棋士の顔があれこれ浮かんでニヤニヤしてしまう。両脇のポケットを、いつもふくらませている村山七段や有森六段らは、こんなジャケットを買ったら、腹を立てて返品するだろう。神吉五段はカシミヤのコートを着ているが、ポケットがふくらんでいて、ちっとも上等に見えない。

 酒場で小林八段の背広を持ったら、何が入っているのか、ズシリと重かった。パーティーの帰りに森安九段が酒場にコートを忘れ、持たされた内藤九段が、余りの重さにあきれ、ポケットを探ったら日本酒の一号瓶が二本出てきたそうだ。

 とは言っても、棋士も最近はおしゃれになった。東京の若手はセンスのいい人が多いし、谷川や羽生はヨーロッパに行っても風景に溶け込んで異和感がない。

 それでもサラリーマンとはどこか違う。サラリーマンの制服は背広であり、その枠から一歩も出られないが、棋士たちは背広をどう着てもいいのである。

 森信雄六段が婚約した。彼を選んだ人は、彼のふくらんだポケットの中にトム・ソーヤを見つけたのだと思う。

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中平さんの棋士に対する愛情がものすごく伝わってくる。

そして、森信雄六段(当時)。

感覚的に、直感的に、なぜか涙が出てきそうになる。

リアルタイムで読んでも、そうはならなかったのではないかと思う。

聖の青春」を通しての森信雄七段、ブログを通しての日常の森信雄七段を知るからこそ、感動が増幅する。

「森信雄六段が婚約した。彼を選んだ人は、彼のふくらんだポケットの中にトム・ソーヤを見つけたのだと思う」

年月が経って陳腐化するどころか、もっと活き活きと輝くようになる文章があるのだなと実感させられる。

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中平邦彦さん。観戦記では原田史郎というペンネーム。

将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞を二度受賞しているのは、中平邦彦さんと後藤元気さんだ。

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