倉島竹二郎さんの「昭和将棋風雲録」より。
当時から日本将棋連盟はあったが、まだ現在のように基礎が確立していなかった。本部は麹町の関根名人邸となっていたが、それは名ばかりの本部だった。そして、対局場は各社まちまちで、大崎八段が担当していた「国民新聞」と「時事時報」の将棋は、蛎殻町の溝呂木七段の家で行われた。
溝呂木七段は人形町生まれの生粋の江戸っ子で、十二世名人小野五平翁の晩年の弟子だが、大崎八段と親交があり、そのころは大崎一門の叔父貴分といった形であった。溝呂木家は3階建てだったが、3階建てといっても裏町にある古びたごくおそまつな建物で、まるで蜜柑箱を3つ重ねたような上も下も同じのっぺらぼうな家であった。溝呂木七段は前身は吉原のお女郎だったという奥さんと、亡くなった先妻の子供さん2人、それに内弟子の中村貴男君といっしょに住んでいたが、溝呂木一家の専用は階下の6畳だけで、2階と3階は対局場になっていた。大崎八段は甘党だったが溝呂木七段は辛党で、用事のないときは階下の長火鉢の前でとぐろを巻き、奥さんの酌でチビリチビリとやっているのがつねであった。そして、これも辛党の花田八段、金子八段、飯塚七段、渡辺七段、山本樟郎七段、小泉七段らは、対局がすむと酒の仲間入りをして雑談の花を咲かせ、興に乗ると各自が隠し芸をやったりした。小泉七段は芸達者で、端唄その他の玄人はだしの喉には思わず聞き惚れたものだし、渡辺七段も酔いがまわると渋い声で都々逸をうなった。みなが溝呂木七段を中心に車座になって酒を汲みかわしているようすは、まるで棋界の梁山泊といった感じであった。
(中略)
当時は現在のように遅刻は3倍にして差し引かれるという規約はなかったが、それでも対局開始時刻は厳守されていた。私が溝呂木家で観戦した3年間、一度の例外をのぞいては遅刻をした棋士は一人もいなかった。勝負は神聖で、おくれてくるような人間は勝負師の面よごしという気持ちが行きわたっていて、そうした点、むかしの棋士は実に律儀であり、また厳格であった。
一度の例外は、関根名人門下の樋口義雄という四段が1時間ほど遅刻したことだった。樋口四段は戦時中交通事故で亡くなったとかきいているが、非常に剽軽なおもしろい男であった。あるときその樋口四段が対局開始時間がきてもなかなか現れなかった。相手は大崎門の鈴木禎一四段であったが、鈴木四段よりも溝呂木七段が腹を立て「何というふしだらな、関根先生に言いつけてやろうと、意気まいていた。そこへ大汗をかきながら階段を駈けのぼってきた樋口四段が、部屋にはいるなりペッタリすわると「すみません」と、平身低頭の体で謝った。そのようすがいかにも滑稽で、目くじらを立てていた溝呂木七段も思わずニヤリとしたが、それでも「1時間もおくれて何をボヤボヤしていたんだ」と、決めつけた。
「それがその」と、樋口四段はきまりわるげにいいわけをしたが、いいわけがふるっていた。
そのころ、”踊り踊るならチョイト東京音頭”―という東京音頭が全国を風靡していて、公園はもちろん、ちょっとした空き地にも多くの群衆が集まって東京音頭の歌と踊りi打ち興じたものである。どうしてそういう現象が起こったのか、不思議な気がしてならないが、昭和7、8年は世相しだいに不穏となって7年の2月には蔵相井上準之助、3月には財界の大立者団琢磨、また5月にはいわゆる五・一五事件で犬養首相が暗殺されたし、8年の3月には日本が国際連盟から脱退したりした。東京音頭の流行は、あくまで太平を謳歌しようとする一般大衆のそうした険悪な世相に対するレジスタンスの現れだったのかもしれない。
それはともかく、樋口四段は家を出てまもなく、近所の顔見知りの連中がやっていた東京音頭に引っ張りこまれたというのである。
「5、6分だけ踊るつもりで輪の中に入ったのですが、羽織袴に扇子を持った姿が受けて大喝采で、調子に乗って踊るうちについ時間がすぎてしまったので」と、樋口四段は面目なさそうにいった。溝呂木七段は「君は懐中時計を持っているから、時間ぐらいわかりそうなものじゃないか」と、ニガ笑いをしたが、樋口四段は「あれはこの間、質に置いてしまったんです。まだ十分間に合うと思ったのが計算違いで、横の人の腕時計を見せてもらってびっくりし、飛んできたのですが」と頭を掻いた。
皆は思わず笑いこけたが、樋口四段はますます萎れて「私が悪いのですから、時間は気のすむように引いてもらって指しましょう」と、神妙にいった。
人の好い鈴木四段は「僕はどちらでもかまわないが、こんなようすじゃ樋口君も気が乗らんだろう。きょうの将棋はお流れにして、あした改めて指すことにしよう」と、好意的な申し出をした。
溝呂木七段もこれに賛成し「それじゃ、きょうはおれがおごるから、一つウンと愉快にやろうじゃないか。倉島さん、こんなわけだから迷惑でも対局はあすにのばして、きょうはつき合ってください。罰に樋口の東京音頭をお目にかけますから」と、いった。
私にも別段差し支えはなかった。
幸いその日は対局が1組だけで、2階の対局室はたちまち酒盛りの場と早がわりをし、溝呂木七段の奥さんも参加して飲めや歌えの騒ぎとなった。下戸の私は寿司を取ってもらって見物役にまわったが、袴のいまにもずり落ちそうなだらしのない恰好をした樋口四段が扇子片手に踊る東京音頭の手振り身振りの軽妙さといったらなく、これでは近所の連中がはなさなかったのもむりはないと思われた。手拍子をとって東京音頭を歌っていた溝呂木七段と鈴木四段も、酔がまわってくると立ち上がり、樋口四段といっしょになって踊り出した。チョビ髭を生やした溝呂木七段が泥鰌掬いさながらに毛脛を出して踊りまくる滑稽さ―私は腹をかかえずにいられなかった。
思えば、まるでうそのようにのんびりした時代であった。
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Wikipediaによると、東京音頭は元々は「丸の内音頭」という曲名で、昭和7年に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露されたという。
当初は丸の内、三宅坂、数寄屋橋など地名しか織り込まれていなかったが、昭和8年に隅田、武蔵野などの地名も加わり「東京音頭」と改題され、東京一円のご当地ソングとなった。
レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚と大ヒット。
倉島竹二郎さんが溝呂木家で観戦をしたのは昭和7年から昭和10年までの3年間だったので、まさにこの時期のことだった。
1980年代前半、東京都・原宿の代々木公園横の歩行者天国に「竹の子族」が出現して、ラジカセを囲み路上で踊っていた時代があったが、この規模を非常に大きくしたのが、昭和8年頃の東京音頭だったのだろう。
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鈴木禎一四段(当時)も立派なら、溝呂木光治七段(当時)の采配も絶妙、「罰に樋口の東京音頭をお目にかけますから」などは最高だ。
古き良き時代という言葉をはるかに超越する、この雰囲気がたまらなく面白い。