倉島竹二郎さんの「昭和将棋風雲録」より。
実力名人戦の開始
昭和9年の夏ごろから名人戦のうわさがしだいに広がり、その独占権を各社が争っているという話が私の耳にも入るようになった。
いまでこそ名人戦のほかに、王将戦、十段戦、棋聖戦、王位戦ほかいくつもの公式戦があって、どんなタイトルをつけてもめったに驚かなくなったが、名人戦は最初の―それも初代名人大橋宗桂以下三百数十年にわたって継承されてきた一世一人名人制度の伝統を破る文字通りのエポック・メイキングな企てだけに、ファンの受けたショックは想像以上であった。私は大崎八段からそれとなく名人戦の機構をききだした。それによると、期間は2年間で全八段が先後2局の総当り戦を行い、これに他棋戦の成績も加算して優勝者を選び、その優勝者が第1期の名人になり、次回からは八段リーグ戦で優勝した棋士が実力名人に挑戦する仕組みらしいとのことだった。
私は常々、勝負の世界に情実が介在してはならない、段位その他あくまで実力本位であるべきだ、と考えていたので、名人戦の趣旨や機構には大いに賛成だった。が、私が問題視したのはその発表方法である。名人戦は将棋界全体の運命を賭けた、公的な意味を含むいわば革命棋戦だけに、特定の新聞社が独占するのは当を得ない、名人戦はよろしく将棋連盟が行い、その棋譜をなるべく多くの新聞社に提供してできるだけ広い範囲のファンの目にふれるような発表方法を採るべきだ―というのが私の意見であった。
しかし、後になってこれはマスコミの本質についての認識を欠いた書生論だったと気づいた。新聞社の中にも愛棋家はいるにはいるが、それはあくまでプライベートなもので、新聞社自体にとって将棋や碁は、主として競争紙を対照とした読者サービスの商品以外のなにものでもなく、独占なればこそ、その商品価値を高く認めて莫大な権利金を支払おう、PRにも力を入れようというので、名人戦がいかにすぐれたものでも各社一斉ではどの社もありがたがるはずはなかった。
が、私はそこに考えいたらず、そのころ私が引き受けていた「文藝春秋」の将棋欄で名人戦の一社独占についての反対論を書いたりした。当時の「文藝春秋」の将棋欄は愛棋家として有名な菊池寛先生の威光のせいもあって自分でいうのはおかしいがそうとう権威があったものである。そして、私の書生論にも賛成の投書がかなりきた。
それはともかく、名人戦は着々実行の運びとなり、昭和10年に入って早々、関根名人が突如引退を声明し、同時に、終生名人制度を廃止し実力名人戦を開始するむねの発表があった。名人戦は「東日」、「大毎」(いずれも今の毎日新聞)が独占権を獲得した。
棋界を思う一念
名人戦の立案者は、当時将棋連盟の最高顧問だった中島富治氏であった。中島富治氏は一橋高商(現在一橋大)出身の退役海軍主計中佐だということだったが、私の識ったころは某デパートの顧問をやっているとかで、西銀座にオフィスを持っていた。中島氏は主計出らしい頭の非常に緻密な、また中々の知恵者で、将棋界には古くから関係して指導的立場に立ち、棋界のいわゆるボス的存在だった。豪傑肌の大崎八段も中島氏には一目置いているようすで、私が「国民新聞」の観戦記を書くことになったときも、最初に挨拶に連れていったのは西銀座の中島氏のオフィスであった。中島氏は軍人出に往々見受ける権威主義的なところがあり、また幾分偏狭のきらいもあって、好悪の感情が強く、贔屓の棋士とそうでない棋士とをはっきり区別して、それをことばにも態度にも現すたちだった。そのため敵も多く、終戦後中島氏が斜陽族化してからは、棋界での勢力はすっかり失われてしまった。しかし、中島氏は心底から将棋を愛し、心から将棋界に打ち込んだ人で、有望な新人の発掘につとめてこれを援助したし、また私財を投じて「将棋日本」という月刊誌を出したりした。私は性格的に反発するところがあって中島氏が羽振りよい時代は疎遠がちだったが、終戦後はかえって親しくなり、会うと必ず長話をするようになった。どういう情報網を持っているのか、中島氏が棋界の事情や棋士の内幕にくわしいことには魂消るほかはなかった。が、中島氏の将棋界を思う真情にはいつも強く心を打たれたものである。名人戦が将棋界に画期的な隆盛をもたらしたことは事実だし、それだけでも名人戦の立案者である中島富治氏は棋界の大恩人というべきであろう。
中島氏の功績はさることながら、名人戦最大の功労者はなんといっても十三世名人関根金次郎翁で、名人戦は関根翁の同意と英断がなければ絶対実現不可能な企画であった。
関根翁は13歳で十一世名人伊藤宗印師の門をたたいて以来ひたすら将棋の向上発展に努めて、多難だった明治大正の棋界を切り開いてきた巨匠だが、これまでの名人制度―一時代に名人はただ一人で、ひとたび名人の座につけばその座は終身不動不易であるという制度については、かなり前から疑問を持っていたようである。そして、私が名人戦の観戦記者になってから関根翁は次のような打ち明け話をしてくれた。
「小野五平さんが名人になったのは69歳のときだが、当時わしは31歳の指し盛りじゃった。わしが血気だったのと、ある感情のもつれもあって小野さんの名人に反対し、争い将棋を申し入れた。ところが、芳川顕正伯その他の有力者が仲に立ち、小野さんはあの通りの老人だから数年も待てば名人のお鉢は自然にお前さんに回ってくる。だからここは事を荒だてずに小野さんの名人を認めた方が将来のためだ、と忠告してくれた。わしはもっともだと思ったし、小野さんが大先輩であることにはまちがいがないので、その忠告をききいれて争い将棋を取りやめ、名人披露の会にも出席した。が、小野さんはそれから91まで長生きされて、わしは数年どころか20年以上も待ちボケをくい、やっと名人のお鉢が回ってきたときには、指し盛りはとうのむかしに過ぎ去っていた。そして坂田さんの贔屓や土居君の贔屓筋からもとやかくいわれる始末じゃった。だからわしは、花田や木村がだんだんりっぱな棋士になるのを見るにつけ、わしがなめたようないやな思いをさせたくないものだという気になり、前から何とかよい方法で後進に名人をゆずる道はないものかと考えていた。それが偶然中島さんの考えと一致し、中島さんの骨折りで実力による名人戦ということに具体化したわけじゃ。小野さんが名人になられたのも69なら、わしが名人を引退したのも69で、これも何かの因縁じゃろう」
名人戦が成功した今日からみれば、関根翁の英断はしごく当然のことに思われようが、その英断を下すまでの関根翁の苦衷はたいへんなもので、あるとき私に、
「名人戦がうまくいきそうでこんなうれしいことはない。わしは名人戦をやる決心をしたさいに、心の中で歴代名人の霊を伏し拝んで、私はこれが将棋界を隆盛に導く最善の道だと信じますが、もし私の考えがまちがっていて将棋界が衰微するようなことがあったら、私は地獄に堕ちてどんな責苦にあってもいといません、みなさんの守られた伝統を破った責任は私一人が負います―と、誓ったのじゃ」
と、名人戦成立当時の苦衷の一端をもらしたことがあった。
たしかに、関根翁は将棋界を思う一念で一生を貫き通した人だった。その後まもなく起こった棋界分裂騒動が無事に納まったのも、小菅名誉名人の調停があったとはいえ、根本は関根翁の棋界を思う一念が両派の棋士を感動させた結果にほかならない。もう一人、名人戦の成立について忘れられない功労者がいる。それは名誉名人の故土居市太郎さんである。
土居さんは関根翁とは師弟の間ながら、かつて将棋同盟社の盟主として関根翁をしのぐ勢力があったし、その門下にはそのころすでに名を成していた金子、萩原、建部、梶といった錚々たる棋士を擁していた。棋歴も大したもので、坂田三吉翁が下り坂になった関根翁を追い詰め、坂田旋風を巻き起こして東都棋界を蹂躙しようとしたとき、大手をひろげてこれを食い止めたのが当時七段だった土居さんであった。そして土居さんは棋界の新しいヒーローとして花々しい脚光を浴びたし、弟弟子に当たる花田や木村、また自分の弟子の金子などが抬頭するまでは、明らかに天下無敵を誇っていた。
もし名人戦が行われずむかしのしきたりのままなら、その経歴からいっても先輩順からいっても、関根翁の次には当然土居さんが名人に推されるはずであった。だから、土居さんが名人戦に不服をとなえて横槍を入れれば、これはきっと大問題になったに違いない。が、土居さんは大乗的見地から名人戦の成立に協力し、自分も進んで名人戦に参加する潔い態度をとったので、すべてが円満に運んだのである。その功労は大いに多としなければなるまい。
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昔の人は偉かったなあ、と感じる瞬間。
関根金次郎十三世名人が実力制名人位制度に転換することを決断した少し後、本因坊二十一世本因坊秀哉名人も引退するにあたり世襲本因坊制から選手権制に移行を決め、本因坊戦が創設されることになる。本因坊戦も毎日新聞で行われている。
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一世一人名人制度が続いていたとしたら、
十四世名人:土居市太郎(58歳で就位。1946~1973)
十五世名人:木村義雄(68歳で就位。1973~1986)
十六世名人:大山康晴(63歳で就位。1986~1992)
十七世名人:中原誠(44歳で就位。1992~)
ということになっていただろう。
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今日はA級順位戦最終局。
順位戦が開始されたのは昭和21年(1946年)からだが、名人特別リーグ戦は昭和10年(1935年)に誕生している。
強引かもしれないけれども、途中で休みはあったものの、今年で盤寿となったA級順位戦。