将棋世界1984年10月号、谷川浩司名人(当時)の連載自戦記〔第23期十段戦リーグ 対福崎文吾七段〕「感覚を破壊された」より。
対局前日
甲子園球場へ。阪神-巨人戦を観に行く。読売テレビのゲストとして、村山実さんとお喋りをさせてもらった。
だが、試合の方は2-5で負け。将棋マガジンで対談をして、大ファンになってしまった掛布選手が、7・9回のチャンスに、角投手に何れも三振をいうブレーキ。
それでなくても暑い夜。4時間試合の末の惜敗に、不快指数がまた上がってしまった。
当日朝
電車の中の1時間は、いつもの居眠りタイムだったが、連盟に着いて、事務所で「大事な一番ですね」などと言われるうちに、気合いが乗ってきた。
3勝1敗同士。十段リーグは10局指しなので、まだ折り返し地点だが、一応第1位決定戦である。
2週間ぶりの対局。仕事もあまり忙しくなく、休養は十分である。
福崎さんも、初めてのリーグ入り、トップ棋士との対戦も多くなり、将棋が変わったかと楽しみな一番であった。
(中略)
玉を囲って、ホッとした途端、▲1八香!
2図以下の指し手
△7三銀▲6七銀△7五歩(3図)挑発
それにしても、ここで▲1八香と上がるとはどういう神経をしているのだろう。一旦は▲6七銀とするところである。
2図までの消費は58分。気合いも十分で、全ての変化を読み切る意気込みだった。
が、この挑発のような▲1八香に、理性を失ってしまう。理屈ではない。意地でも△7三銀である。
そして、昼休を挟んで53分。自信を持って△7五歩と仕掛けた。
△7五歩に▲同歩なら、△8四銀▲7八飛△7五銀▲6八角△7四歩から、△6四歩を狙う。とにかく、取ってくれれば何とかなる、と思っていた。
3図以下の指し手
▲6八金△7六歩▲同銀△8六歩▲同歩△7四銀(4図)成功か
速攻に不意を衝かれたようだったが、福崎さん、▲6八金は独特の受けだった。
これで、△7六歩▲同銀△8四銀は、▲6五歩△同角成▲同金で潰れない。
この辺りは、流石に指し慣れている感じである。穴熊に組むまでは、少々形が悪くても我慢するのである。
こちらとしては、何とか銀を7四に進めたい。が、すぐに△7四銀は、▲7五歩△同銀▲7六歩で追い返されてしまう。
△7六歩▲同銀△8六歩▲同歩△7四銀が自慢の手順。一歩損の代償を、好形に求めた。
もちろん、▲7五歩なら△同銀▲同銀△7六歩である。
4図以下の指し手
▲1九玉△7二飛▲6七金△7五歩▲8七銀△3三角▲2八銀△2二玉▲3九金△3二銀▲3六歩△4四歩(5図)一段落
▲7五歩と打てない、となれば、無視して▲1九玉。これでは△7五銀とは出にくい。
ここで△7二飛は、△7五銀を見せて、▲6七金△7五歩▲8七銀を強要。ここまで金銀をソッポに向ければ作戦成功、と見たものである。
ただ、一段落すると穴熊に組まれてしまうので、固さ負けしないよう、こちらも左美濃に組んだ。
5図以下の指し手
▲5七金△4三金▲4六金△7六歩▲同銀△7五銀▲6七銀△7六銀▲同銀△同飛(6図)損な交換
▲5七金~▲4六金。筋悪ではあるが、実戦的な指し方である。福崎さんの穴熊は、3枚ついているよりも、2枚で、飛が3八に居る形が多い。とにかく、戦いになればこっちのもの、と見ているようだ。
この手に、意識過剰になってしまった。△2四歩▲5八飛△5二飛とじっくり指して、穴熊の弱点である1・2筋を伸ばせる展開にすべきだった。
△7六歩▲同銀△7五銀は、狙い筋ではあったが、これでは△7五歩▲8七銀と押さえ込んだ手が生きてこない。そして、歩切れが痛いのである。
6図以下の指し手
▲3五歩△同歩▲3八飛△4五銀▲3五金△3四歩▲4五金△同歩(7図)3筋の戦い
▲3五歩△同歩▲3八飛は当然の展開である。▲6七銀などは気合いが悪く、△7七飛成▲同桂△7九角と勝負しても大変である。
こちらの方も、3筋を死守せねばならない。▲3五金~▲3四歩と押さえられては必敗である。よって△4五銀。
こうして金銀を交換して、狙いは△6七金である。この金が間に合って駒得できれば、絶対に勝てる。
7図以下の指し手
▲2五銀△4四金打▲6五歩(8図)辛抱
▲2五銀。全くうるさくやってくるものである。もっとも、攻めるとすれば、これしかないが―。
34分、長考した。気分としては△6七金▲3四銀△同金▲同飛△7七金▲4四銀△同角▲同飛△4三銀打と攻め合いたかったが、飛と金があまりにも重すぎる。ここはやはり辛抱であろう。
ここで、しつこく▲2六銀かとも思ったが、福崎さんは▲6五歩と強気である。
8図以下の指し手
△7三桂▲4四角△同角▲3四銀△同金▲同飛△9九角成▲7七歩△8六飛(9図)予定だが
夕休直後の8図。
最初は、△5六飛のつもりだった。以下、▲5三歩△同金▲3四銀△同金▲同飛△7七角成▲同桂△3三歩▲3八飛△4四角(D図)の変化が一例。が、これとて良しとは言えない。まだまだ、苦労が続きそうである。
考えているうちに、頑張る気が薄れてきた。「角を切られても大したことないよ」
本譜の順は、△7三桂からの予定で、これで寄りなし、とみていた。
判っていれば、▲3四飛に△4三銀打と頑張る手も知っていたのだが―。
9図以下の指し手
▲3二飛成△同金▲3三歩△同玉▲3五銀(10図)異常感覚か
ここは長考される、と思い、席を立った。が、手洗いからもどってみると、局面が動いているようである。
が、一瞬何が起こったのか、判らなかった。
▲3二飛成!こういう手を、どうして思い付くのだろう。福崎さんにしてみれば、次に△3三香と打たれると困るから、当然の一手かもしれないが―。
▲3二飛成に△同玉は、▲4四銀△4三銀▲3三歩△同桂▲2一銀ぐらいで寄り筋。
△同金に▲3三歩。ここに歩が利くのが痛かった。△同桂は▲4一銀、△同金は▲3四歩―。
△3三同玉に▲3五銀。いわゆる、待ち駒である。先手玉は、絶対に詰めろがかからない。
10図以下の指し手
△3八歩▲4四金△4二玉▲5三金打△3一玉▲3三歩△同桂▲同金△同金▲4二銀 (投了図)まで、85手で福崎七段の勝ち
福崎ショック
▲3三歩と打たれて、全てを悟った。
自玉に受けがないことを。
10図。△5三銀は、▲3四金△4二玉▲3三歩△同桂▲4四銀△同銀▲同金△5三銀▲5一銀で一手一手となる。
この形は、△7三桂の一手が全く利いていない。嫌気がさしてしまった。が、本譜は少し粘りが足りなかったようだが―。
投了図以下は、△3二玉は▲3四歩、△2二玉は▲3四桂、簡単である。
福崎将棋は全く変わっていなかった。というより、前にも増して、「怪しく」なっていた。
終局後、気を静めるために、仲間と飲みに行った。彼が、呆れたように言った。
「まるで、狂犬病だ」
棋聖戦での米長ショックに続いて、今度は福崎ショック。全く、将棋がおかしくなってしまいそうである。
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非常に有名な一局の自戦記。
現役プロ棋士データブック2016 【下】た~わ行(将棋世界2016年2月号別冊付録)の福崎文吾九段の項では、
84年の十段リーグ、対谷川浩司戦で指した▲3二飛成という一着が話題となった。穴熊の堅さを頼みに大駒を叩き切る猛攻だが、当時名人の谷川は「感覚を破壊された」と本誌の自戦記に書いている。現代将棋では当然の一着とされているが、時代を先取りした福崎の感覚に皆が感心した。
と書かれている。
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▲3二飛成が現代将棋では当然の一着と言われても、私には一生思いつかない手だと思う。
そういう意味では、3月6日に行われた棋王戦第3局、渡辺明棋王-佐藤天彦八段戦(渡辺棋王の勝ち)。A図から渡辺明棋王は△5二歩と指しているが、ここに至るまでも銀損をしたりしている。代償にと金を作る方針であることはわかるものの、振り飛車穴熊-居飛穴ではない居飛車戦、ではなく、相穴熊戦でのこのような指し方に、私は本当にビックリした。
現代将棋の最先端の感覚と言って良いのだろう。
厳密にはA図では渡辺棋王が有利ではない局面だったようだが、とにかくいろいろなことに感心させられた日だった。