将棋の魔性

将棋世界1995年11月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「将棋の魔性」より。(昨日の続きです)

 卓球と将棋の共通点はどちらも一人対一人の勝負だということ。ところが著しく違っているのは勝ち負けに対する感情である。

 どんなゲームでも負けると面白くないがこの二つは度合いが大きく異なる。将棋で負けたときの残念度は卓球のそれとは比較にならない。たとえば、兄弟で将棋を始める。しばらく静かに指していたと思ったら忽ち取っ組み合いの喧嘩が始まるというのがおきまりのパターン。谷川家の兄弟喧嘩を止めさせるために父が子に将棋を覚えさせたのは有名な話である。それで喧嘩が減ったのは、兄の方がかなりの間、東都の浩司君より強かったからであろう。これが逆なら兄の方は腕力に訴える。負けた弟は腕力も勝てないので、ただ悔しくて駒を噛んだ。

 親子、夫婦、恋人、親友、そういう特別に親しい間柄で、一方が他方を教えてやる、あるいは遊んであげるという場合は別として、将棋は、残念だが人間関係までおかしくしてしまうことがある。

 昔、藤内教室にたがいに親友だという二人連れが来ていた。一方のAが、もう一人のBより腕がかなり上で、いつもBを負かしては言いたい放題の雑言を浴びせていた。ある日、Bが一人でやってきてなんとかAを負かす秘策を教えてほしい、そのためにはどれだけお金を積んでもよいと言う。そして「一度やっつけたらもう二度とあいつとは会わん。将棋も止める」と言うのであった。親友というのは名のみで、今は憎しみしかない、そういう感じであった。

「将棋を習ってる女房に教えるつもりで指していたら負けてしまってね、頭にきて本気を出して負かしてやったら女房がむくれてものを言わなくなったよ」。こういう人もいる。

 いい加減に指していても、負けるとやはり腹の虫が収まらないという経験は読者も持たれているのではないだろうか。

 行きつけのバーで客がいつも囲碁を打っているところがある。その中の一人が、「実は将棋の方が好きで囲碁よりも自信がある」と言うので、私の友人と将棋対局が始まった。

 ところが、その人は敗れると、席を蹴るようにして店を飛び出した。

「あんな怒った顔初めてよ。碁では負けてもにこやかで、『教わったのだから』と言って相手さんの勘定まで持つことがあるのに」とホステスが驚いていた。

 どうしてこう違うのだろうか。囲碁では、たとえ負けても地所があちこちに残っているというような慰めがある。ところが将棋は負けると自分の首を討ち切られたような気分になり、途中でうまい手を見せていても、すべてその一事で吹っ飛んでしまう。この違いであろうか。「二歩(反則)で勝っても嬉しい」というのが大方の棋士の思いである。

 勝ちたいと思うから負けた時不愉快になる。精神衛生上よろしくないから、楽しい将棋を指して勝敗にこだわらないようにしよう。

 そう心に決めて実践したことがある。

 しかしやがて気づいたことは、これを守っていると緊張感とか張り合いといったものが乏しくなる。充実感もなくなって、将棋が面白くもなんともなくなってくるのである。

 古い雑誌を見ていると、芹沢さんの次の文章が目に入った。「是非勝ちたいと思っている者と、できたら勝ちたいなと思っている者が戦えば、余程力の差がない限り前者が勝つ」 これはある意味では当然のことを言っているに過ぎない。しかし私にははっきりと芹沢さんの心の内が伝わってくる。

 戦っていて、どうも相手ほど勝負にむきになれない。それで途中良くなった将棋も結局は負かされてしまう。表面淡々としているが心中はやりきれない思いで満たされている。

 そこから、この悟りとも負け惜しみともとれる言葉が出てくるのである。負け惜しみというのは、自分もその気(本気)になれば負けないんだということを言外に匂わせている。

 結論を急ごう。将棋で負けたときの残念さは、その度合に比例して勝負の充実さ、面白さを物語っているのであろう。

 もしこれを薄めると、面白さも薄まり、他のゲームなみになってしまうに違いない。

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勝ちたいと思うから負けた時不愉快になる→精神衛生上良くないので楽しい将棋を指せるよう勝敗にこだわらないようにする→気がつくと、緊張感や張り合いが乏しくなる→充実感もなくなって、将棋が面白くもなんともなくなってくる

これは、短所を無くそうとした結果、長所まで失われてしまう現象そのものだ。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」、「魔性の女」、「ハイリスク・ハイリターン」、「求めよさらば与えられん」、「角を矯めて牛を殺す」、いろいろな言葉が頭の中を駆け巡る。

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何年か前の社会人団体リーグ戦でのこと。

対局相手の人が、「アッ」と言って真っ青になった。

時計が0を表示していて時間切れになっていたのだ。

相手の人は「いやあ、、負けました」と言ったが、私は、

「そういえば秒読みの音とかしていませんでしたね。時間は正しく計測されているようだけど、音を出す装置が壊れているのかもしれませんね」

と言って、世話役の人に調べてもらうと、やはり音が出ていなかったことが判明。

規定がどうなっているのかはわからないが、音が出ずに時間切れになっているのは気の毒だ。

私は、優勢な局面で持ち時間もかなり残しているという余裕から、「秒読みからスタートで指し続けましょう」と提案。

相手の方は恐縮していたが、これほどうまく捌けた将棋はきちんと指して勝ちたい。

しかし、、、例によって終盤の甘い私は逆転され、負けてしまった…

全ては自分が悪いのだが、この時ばかりは、相手が負けを認めたところでやめておけば良かったと悔やんだものだった。

勝てる時に勝っておかなければ、勝利の女神に見放される。

勝敗にこだわらないような素振りを見せただけで、勝利の女神は他の人のところへ行ってしまう。

将棋の魔性を軽んじた私にバチが当たった格好だ。