現代に書かかれたと言われても不思議ではない20年前の文章

将棋世界1995年11月号、神吉宏充五段(当時)の「今月の眼 関西」より。

 将棋と棋士を結び付けるものは何か?それは『棋風』である。正確な指し手で強いだけならコンピュータの進歩を待てばよいが、ひとそれぞれの持つ『棋風』が将棋に勝負に『ドラマ』を演出させ、それがファンを惹き付け、棋士の存在感を強く印象付けている。

『棋風』は時に最善手を逃したりする。悪手を指してしまう時もある。でもそれが棋士の『顔』なのだ。誰が何と言っても「これがオレの将棋や、文句あるか!」と胸を張る。だから面白い。

 例えば淡路八段。どう見ても攻めれば勝ちなのに、と思う局面で一転馬を引き付けて受けにまわる。そして記録係に必ずこう聞く「残り何分?」。最短距離の勝ちよりも、確実で負けの可能性の少ない道を選ぶ。獣道や切り立った岩山を避け、平坦で舗装された道を行く。そんな道がなければ、自らそんな条件を作り上げてしまう。いい将棋を粘る(?)その棋風は、長手数の美学と呼ばれ、これが善くも悪くも淡路八段の『顔』なのである。

 谷川王将。淡路八段とは対照的に、最短を以って善しとする棋風で、常に危険と背中合わせでもそれが勝ちにつながるのであれば、飛び込んでいく。所謂『光速流』と呼ばれるその終盤は斬るか斬られるかに、勝負の真理を求める。しかし入玉模様になると、いつものキレはどこへやら、極端に元気のない将棋になってしまう。これが谷川王将の『顔』。

 本当にそうやって考えると、棋士の数だけ棋風があり、棋士の数だけドラマがある。何年か何十年か先にはプロ棋士と対等に戦えるコンピュータが出てくるかもしれない。そうなるとファンは減っていくのか…否、『メイク・ドラマ』を演出する人間の魅力が棋風があるかぎり将棋は不滅なのだ(何か長嶋監督みたいになってもた)。

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1995年、この頃の将棋ソフトの棋力はアマ初段位だったと言われている。

このような時期に、まるでタイムマシンで20年先を見てきたような上記の文を書いた神吉宏充七段は、あまりにも凄いと思う。

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Google傘下の英グーグル・ディープマインド社が開発した囲碁の人工知能「AlphaGo」が韓国のイ・セドル九段を破り、対戦成績を3勝0敗とした。

Googleは検索エンジンの精度向上や音声認識技術、自動運転カーの開発にAIを活用しているが、最終的には、パソコンに「◯◯が△△して困っているのだけれども、どうすればいいだろう?」と話しかけると、AIと検索エンジンを連動させて、その人にとっての最適案を示してくれるような未来を考えているのかもしれない。

身近なところでは、失恋して家に帰ってきて、失意の中、パソコンに「今の心を癒やしてくれる音楽をかけてくれ」と言うと、YoutubeとAIが連動して、その人の好みそうな曲の中から癒やしの効果のある曲を何曲も続けて流してくれる、ような世界。

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しかし、2045年問題とも言われるように、人間がAIをコントロールしきれなくなり、逆にAIに人間が支配されるようなことも、大いに有り得ること。

AIに支配されることがなかったとしても、AIが自己増殖的に悪意のあるAIをどんどん開発するようなことがあれば、目も当てられない世界になってしまう。

鉄人28号なのかマジンガーZなのか、正義の味方の主人公が操縦しているうちは良いが、悪の一味に乗っ取られた場合、人類の平和が脅かされるのと同じようなことだ。

あるいは、人のために良かれと思って開発されたAIが、付加価値が高いとされてきた人の仕事を奪ったり、不幸にすることだってあるだろう。

これまでの企業内システムは、コンピュータにできるような業務はコンピュータにやらせて、人間は意思決定や判断や創造を伴う付加価値の高い業務に集中すべし、という考え方だったが、AIはその付加価値の高い業務までもコンピュータにやらせようというアプローチになりうる。

AIについての様々な議論はこれからも続くのだろうし、続かなければならないことだと思う。