先崎学五段(当時)「郷田の顔が鬼に見えた」

将棋世界1990年12月号、先崎学五段(当時)の「今月のハイライトシーン」より。

近代将棋1990年10月号より。

 というわけで、僕は順位戦に負けたのである。負けたのだが、まだ負けたという実感があまりわかないのである。

 今これを書いているのは順位戦を戦った翌日。時刻は午後6時なのだが僕は起きたばかりで、頭が割れるように痛い。今までに経験したことがないくらいの凄い宿酔いである。昨日は日本酒を、ビールを飲むようなピッチでのんだような記憶があるが、どこでのんだのか、どうやって帰ったのかなど、僕の記憶ははなはだ不鮮明で、このだらしなさには、自分でも呆れ返るよりない。朦朧とした意識のなかに昨日の局面が映し出される。それにしても痛い一敗だったな、と思う。

 戦型は、総矢倉だった。生まれてこのかた総矢倉などという将棋は指したことがないのだが、成り行き上そうなってしまったのである。相手の郷田は、2勝2敗と今期の昇級は絶望的なのであるが、それだけにこの一番に照準を合わせて来ているだろう。夕食休憩のとき、まだ駒がぶつかっていない。長考派の郷田に対し、僕の方が消費時間が多いのだが、これは、僕が総矢倉に無知で、いちいち考えて指さなければいけないからである。このへんが研究量の差なのかな、と対局中に反省していた。ご存知の方も多いだろうと思うが、総矢倉というのは、一応結論が出ていて、千日手になるといわれている戦型である。僕も定説にならい千日手模様に粘ろうかと思ったのだが、攻めをためらって、先に攻められて潰されると恥ずかしいので、つい先攻してしまった。このあたりも研究量の差だろう。

 少し無理かな、と覚悟を決めて攻めたのだが、実際はそれほど無理攻めでもなく、そのまま難解な終盤戦になった。途中からむこうも時間を使う展開になり、そして迎えた図の局面。時刻はすでに11時半を回り、郷田の残り時間は9分しかない。少し優勢だと思っていたこの局面で指された5手1組の手順を、僕は、一生忘れないだろう。将棋を指していて、手の善悪は別にして、驚かされることがあるが、これほど驚かされたことはなかった。

 郷田は前からの読み筋といわんばかりに▲8四歩と打ち、咳払いを一発くれてから、かぶりを振った。これは△同角と取る一手である。それに対し、ノータイムで、なんと▲8五玉と桂馬を取って来た。これに対しては、一見△8三飛で楽勝のようだが、これには▲7二銀という好手があり悪いのだ。

 そこで、26分、慎重に読んで△7三角と引いた。これで、悪くないと思っていたのだから全く馬鹿である。(ああ、この原稿を書いていて腹がたつ)△7三角に対して、郷田は、またもノータイムで▲7四玉と、玉で飛角の両取りをかけて来た。この一連の手順を、僕は全くうっかりしていた。玉という駒は、強い受け駒だということをはじめて知った。

 もちろん、これで将棋が終わったわけではなく、以下は持将棋模様の大熱戦になった。午前2時―僕の駒は大駒2枚と小駒が13枚。持将棋になるには1点(1枚)足りない。1分将棋で指していて、1枚足りないことに気づいたときの気持ちは言葉では言い表せない。日頃は、打ち捨ての歩や成り捨ての歩などで、実に粗末に扱っているのに、いざこの段になって何故1枚歩が足りないんだ―。

 それでも投げ切れないので指し続けたら、1枚足りないところから、1枚また1枚と取られ、最後は悲惨な投了図となった。郷田の顔が鬼に見えた。終局は午前2時18分。総手数は287手だった。

 今期の順位戦は終わったな、と思った。一生C2のままなのかな、とも。

 感想戦が終わったのは朝の4時だった。始発で帰ろうか―と思ったが、ちょっと、と思って郷田と新宿に出た。二人で無言で新宿の街を歩いた。馴染みの店に行くと、仲間がいて、帰るというのを引き留めて一緒になって痛飲した。人生なんてどうなってもいいと思った。郷田は強いな、きっと棋聖になるんじゃないかな、とおぼろげに思った。羽生は竜王。佐藤康光だってすぐにタイトルを取るだろう。石川啄木の有名な短歌が浮かんだ。

「友がみな 我より偉く見ゆる日よ 花を買いきて 妻と親しむ」

 僕には、慰めてくれる妻もいないのだ。そういえば「結婚する、結婚する」と叫んで朝日の昇った新宿の街を暴れたような気がする(馬鹿だねえ)。店を出たあとは近くの雀荘で麻雀を打ちながらまたのんだ。麻雀が終わってからもしばらく帰るに帰れず、倒れるまでのんだ。

 酒をのんで倒れたのは3度目である。

 朝の9時に雀荘を出て外を歩くと、フラフラと道端に座り込んでしまった。新宿の二幸前の交差点の横断歩道の前で、出勤するサラリーマンを見ながら悄然としていると、ふいに、道端でねてみたくなった。前から一度やってみたかったのだ。人の目など気にならなかった。僕は、ゆっくりと右手で頭を支え横になった。しばらくはそのままにしていた。それが2、3分だったかもしれないしあるいは1時間以上だったかもしれない。よく警察につかまらなかったと思う。ねていると、不意に、烏が寄って来た。近くにゴミ置き場でもあるのだろう。烏は、5mぐらいまで近づいたが、人間の息のひそみと体温を感じとったようで、それ以上には近づかなかった。俺はまだ生きてるな、と感じた。僕の目は、烏と平行になっている。烏は、飛び立つ前に、こちらの方をじっと見つめた。僕には、それが烏が同情してくれているように感じられた。 

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順位戦C級2組、この時点で先崎学五段(当時)は4勝0敗、郷田真隆四段(当時)は2勝2敗。

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この期が終わって、先崎五段が8勝2敗、郷田四段が6勝4敗。

昇級は、森内俊之五段、阿部隆五段、小林宏五段だった。(ともに9勝1敗)

先崎五段は順位が5位で上位だったものの、中川大輔五段(1位)、神崎健二五段(3位)も8勝2敗で、先崎五段が次点というわけでもなかった。

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順位が5位で5戦終わって4勝1敗。

好位置につけていると思うのだが、先崎五段の「今期の順位戦は終わったな、と思った」。

これからの対戦相手のことなども考慮のうえなのかもしれないが(先崎五段の2敗目は森内五段)、順位戦は苛酷だ。

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「新宿の二幸前の交差点」

二幸は現在のスタジオアルタの場所にあった。

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郷田四段がいつまで一緒にいたのか気になるところだが、麻雀を一緒にやって、それから別れたようだ。

「郷田真隆”遅れてきた青年”の本番」